7月6日(日)10:00-12:00
駒場キャンパス18号館4Fコラボレーションルーム3

・暴力、フレーム、見えないもの――オーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958)/川崎佳哉(早稲田大学)
・マンガにおける絵と言葉――諸星大二郎『感情のある風景』と可視性の条件/三輪健太朗(学習院大学)
・石原表におけるゲシュタルトの安定性/不安定性/馬場靖人(早稲田大学)
【コメンテーター/司会】松谷容作(神戸大学)


パネル概要

「見えるもの」と「見えないもの」とを分離し、その二項対立的な枠組みの中で世界を認識しようとする立場を、不断に解体し、脱臼させ、乗り越えていくこと。前世紀来の人文学の歩みの中で繰り返し試みられてきたこの企ての必要性は、今なお薄れていない。本パネルでは、いずれも具体的な視覚媒体を対象とする三本の発表を通して、見えるものと見えないものとの対立が揺らぎ流動化する地点、視覚経験の臨界点を捉えることを目指す。
馬場が扱う色盲検査表、川崎が扱う映画、三輪が扱うマンガは、いずれも表面的には先の二項対立を強化するもののように思われる。ゲシュタルトとして経験された検査表は図と地の明確な分離をもたらし、映画のフレームは画面内と画面外をはっきりと分け隔て、マンガにおける絵と言葉の関係は視覚イメージを意味作用の網によって絡め取る。こうして観者は、安定した視覚の秩序と規律体制の維持とを強いられる。
しかし、各々の対象(検査表、映画、マンガ)の中には、それら自身が強いてくるリミットを内破する契機が見出されうる。本パネルの三本の発表は、石原表における数字の流動現象という実際の知覚体験の水準から(馬場)、またそれぞれが扱う作家によるメディウムへの自己言及的な批判の分析を通して(川崎、三輪)、これらの対象に備わっている潜在力、すなわち視覚経験の臨界点をさらけ出す力を明らかにしていく。

暴力、フレーム、見えないもの――オーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958)/川崎佳哉(早稲田大学)

生涯を通じてさまざまなメディアを横断したオーソン・ウェルズは、1958年のあるインタビューにおいて、自身の映画をメディウムの実験として捉えている。この発言は、しばしばそのスタイルの革新性のみが注目されてきたウェルズの映画に対する新たな態度を要請する。すなわちそれらの映画をめぐっては、たんに個々の作品の美学的な達成を論じるだけではなく、そこから映画というメディウムに対するウェルズの認識とその意義を引き出すことが課されているはずだ。
ウェルズは同インタビューのなかで『黒い罠』(Touch of Evil, 1958)について触れ、この作品を警察権力への批判として語っている。警察による証拠の捏造とそれに伴う不当な逮捕を描き出す本作品は、作中で主人公の口から批判的に発されるように、そうした暴力を「罪に陥れる」という意味での「フレーミング(framing)」の問題として描き出す(“ You framed that boy ”)。本発表は、こうした物語内容におけるフレーミングの問題を、この映画自体のフレーミングと関連づけて考察する。『黒い罠』の画面は、決定的な瞬間を捉えない点においてフレームの外=「見えないもの」を繰り返し喚起する。そのとき観客の意識にあげられるのは、あるイメージを選択することで他を排除するというフレーミングの暴力性である。こうした二重の意味でのフレーミングに注目することで、映画というメディウムに向けられたウェルズの自己言及的な批判が明らかになるだろう。


マンガにおける絵と言葉――諸星大二郎『感情のある風景』と可視性の条件/三輪健太朗(学習院大学)

マンガをめぐる理論的考察の中で、常に大きな課題の一つとなってきたのは、絵(image)と言葉(word)の関係をめぐる問いである。19世紀以降に現れたマンガという新たなメディウムの美学的可能性は、近代西欧の伝統の中で切り離され、対立せられてきたこの両者が、協働ないし衝突することによってこそ生まれるのだと、しばしば主張されてきたのである。そこではまた同時に、絵と言葉とが互いの境界を曖昧なものとし、イコンおよびシンボルとしての身分の間を揺れ動くという事態も指摘されてきた(「漫符」と呼ばれる符牒や「吹き出し」は、その典型的な現れである)。
本発表では、諸星大二郎の諸作品を通して、マンガにおける絵と言葉をめぐる問題を再考する。諸星はもともと、人物と背景とをあからさまな図と地に分割することのない有機的な描線と、言葉による世界の分節化を主題とした物語の構築とで知られてきた作家である。そのことを踏まえつつ、ここでは特に、1981年の作品『感情のある風景』に着目する。このSF短篇に登場する星の住人は、感情を心から切り離し、幾何学的な記号として体の外部に表出する術を有している。それによって彼らは、他者の抱える「恐怖」や「喜び」などの感情を文字通りに「見る」ことができる。本発表は、この短篇を手がかりに、諸星がいかにして、マンガにおける絵や言葉の身分を改めて問いに付したのか、その戦略の意義を検討する。


石原表におけるゲシュタルトの安定性/不安定性/馬場靖人(早稲田大学)

現在世界中で色盲のスクリーニング器具として使用されている「石原表」。この検査表は、1916年に当時の陸軍軍医監・石原忍によって徴兵検査のために発明されたが、とりわけ日本では近年に至るまで教育機関や就職試験の色覚検査において使用され、色盲者の進学先や就職先を制限してきた。石原表は、被験者の知覚におけるゲシュタルト化の機制を利用し、物理的には単なる明度の異なる色班の集合に過ぎないものの上に、「図」として「数字」を浮かび上がらせることによって、その被験者の身体を色覚正常/色覚異常へとふるい分ける。たとえば石原表には、同じ表の上に、正常色覚者には「8」、色盲者には「5」という数字が浮かび上がるようになっているものが含まれている。被験者の生理学的な色覚の機構の種別に応じて別の図が浮かび上がるようになっているのである。だが実は、この「図=数字」は大きな不安定性を抱え込んでもいる。条件次第では、「8」と「5」の両方の数字が見えてしまうことがあるからだ。
本発表では、この「数字」の流動現象から出発し、ゲシュタルト心理学の知見などを援用しながら、石原表における知覚の機制について論じる。これにより、同じ表の知覚のなかにゲシュタルトの安定性を形成すると同時に、その安定性を崩壊させてしまう契機が潜在していることを明らかにしたい。