7月6日(日)10:00-12:00
駒場キャンパス18号館4Fコラボレーションルーム1

・絶望の淵の「希望」と「暴力」――目取真俊『虹の鳥』考/崎濱紗奈(東京大学)
・「父」なるものの受容、そして転換――大江健三郎作品における「鳥」の表象に注目して/菊間晴子(東京大学)
・(音)風景を与える――鳥を書き分けるブランショ/高山花子(東京大学)
【コメンテーター/司会】田中純(東京大学)


パネル概要

テクストに描かれる鳥を、どのように読み解くことができるだろうか。鳥のさえずり、はばたき、飛翔、色彩。古来、先史にさかのぼる頃から、鳥をめぐる想像力は、宗教、神話、芸術のさまざまな局面で作用してきた。かつて言葉を話すとさえ思われていた鳥は、脊椎動物と一般に理解されるが、その進化の過程をふくめ、鳥の生態・分類は21世紀のいまなお謎をはらみ、生物学の進展とともに変わりつづけている。地域および歴史を横断する数え切れない程の姿かたち。つまびらかとならない鳥とその周縁性に向かう契機は、テクストにおいても、多ジャンル・文化における鳥の表象の氾濫、過去の言説の蓄積と相乗して増加している。本パネルが接近を試みるのは、決して鳥が主題ではないにもかかわらず、目立たない形で、しかし確かに現代のテクストに描かれる周縁的な鳥たちとなる。暴力をめぐる問い、精神分析的な問い、あるいは言語をめぐる問いをめぐり、ときに変容する形で息づく鳥がいる。それらは動物なのか、あるいは人間の分身であるのか、そもそも生命を持つものなのか――。そのような、単なる象徴に還元されることを拒むかのような謎めいた鳥たち、鳥を巡る系譜学からは零れ落ちてしまいそうな不気味な漂白物にあえて分析の軸を置き、テクストを再読する。目取真俊、大江健三郎、モーリス・ブランショをつなぎながら、現代における鳥をめぐる想像力、周縁への新たな感度を探りたい。

絶望の淵の「希望」と「暴力」――目取真俊『虹の鳥』考/崎濱紗奈(東京大学)

本発表では、目取真俊の長編小説『虹の鳥』(2004)を中心に「希望」と「暴力」の関係について考察する。前高西一馬が指摘するように、我々は『虹の鳥』の中に、掌編小説『希望』(1999)以降目取真が執拗に問い続けてきた同一の主題を発見する。その主題とは、既存の権力構造の打破を企図して発動される暴力を巡る問いである。
麻薬漬けにされ、売春を強要される少女マユ。売春を統括し、絶対者として君臨する比嘉。比嘉の命令に絶対服従し、マユを管理するカツヤ。マユの背中に彫られた虹の鳥は、比嘉からの脱出不可能性という絶望の淵に立つカツヤにとって唯一つの「希望」への手がかりとして表象される。ここで鳥は決して無条件に美しいものではなく、むしろ、べとついた血腥い臭気をまとっている。二つの作品の背景には、1995年に発生した沖縄米兵少女暴行事件がある。『希望』において「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」と語られた言葉は、『虹の鳥』において「八万五千の人々に訴えている少女の姿は美しかった。だが、必要なのは、もっと醜いものだと思った。少女を暴行した三名の米兵たちの醜さに釣り合うような。」というカツヤの呟きに橋渡しされる。
本発表は、鳥を「希望」と「暴力」を読み解く鍵とし、昨今高まりつつある「琉球独立」論をはじめとした現代沖縄思想を考察する一助となることを目指す。


「父」なるものの受容、そして転換――大江健三郎作品における「鳥」の表象に注目して/菊間晴子(東京大学)

大江健三郎の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』(1983)の中の一篇、「蚤の幽霊」には、ウィリアム・ブレイクの詩に触発されたある神話的ヴィジョンが示されている。主人公は、障害を持つ息子がアルビオンのような美しい肉体によって霊的な特性「イーヨー」を彼に啓示する一方で、自身は小さな野鳥の姿をとって霊的な特性「ミソサザイ」を啓示する情景を夢に見る。すなわちこの作品では、「ミソサザイ」という「鳥」が主人公のセルフ・イメージとして描かれているのだ。また大江がそれ以前に発表した作品の中にも、「鳥」のイメージは印象的に用いられている。例えば短編「鳥」(1958)には主人公を取り巻く亡霊のような「鳥」達が登場するし、『個人的な体験』(1964)の主人公には文字通り「鳥(バード)」という名が与えられている。作者である大江自身の姿が色濃く投影された主人公と「鳥」のイメージとは、作品を追うごとにその関係を変化させつつ密接に絡み合ってきた。そこで本発表では、初期から1983年までの大江作品における「鳥」の表象に注目し、「ミソサザイ」が主人公のセルフ・イメージとなるに至るまでの過程を分析する。大江の「鳥」をめぐる想像力に焦点を当てることで、幼年時代の彼に忘れ得ぬ傷を与えた「父」なるものと執筆活動を通して対峙し、自身もまた実生活で「父」となるという転機を経ながらそれと苦闘し続けた彼の生の軌跡を読み解いてみたい。


(音)風景を与える――鳥を書き分けるブランショ/高山花子(東京大学)

ウグイス、ヒバリ、ミミズク、カササギ、カッコウ、インコ、カラス……。モーリス・ブランショの作品『謎のトマ』(初版1941、新版1950)には、いくつもの鳥の名が現れる。ときに「鳥たちles oiseaux」「一羽の鳥un oiseau」とも示されながら、樹上で歌い、叫び、あるいは羽ばたく鳥の描写が散在する。作品中に描かれる動物をめぐっては、既に先行研究において指摘されているように、登場人物トマとアンヌの蜘蛛や猫、虫への変容といった人間と動物の境域の問題、あるいはそれにともない顕在化する死の問題との関わりが大きな位置を占めるように思われる。それに比すると、新版では描写が大幅に削減される鳥は、登場人物たちとの直接的な接触をほとんど持たず、ある種の距離感をもって描かれていることは否めない。一方で、トマがかつて自らの声が鳥のようであったと終盤で示唆する箇所もあり、鳥の扱いが広域に渡る点は注目に値する。総称と種名の書き分けに伴う描写の相違、その表出の頻度の落差はほかの動物より顕著であり、固有の姿形、鳴き声などを視覚的にも聴覚的にも断続的に想起させ、物語中に(音)風景を遠近感とともに与えるかのようだ。本発表では、初版と新版の異同を踏まえ、鳥をめぐる筆致をほかの動物と比較しながら分析することで、筋書きの不透明なこの作品にブランショが展開した動物のいる世界、生態系を読み解く一助とすることを試みる。