日時:7月8日(日)10:00-12:00

・「残酷」の萌芽としてのニジンスキー/堀切克洋(東京大学)
・土方巽から大野一雄へ──言語によるイメージの身体化をめぐって/宮川麻理子(東京大学)
・コンテンポラリー・ダンスにおける「舞踊言語体系」の機能──ウィリアム・フォーサイスの場合/藤堂寛子(東京大学)
【コメンテーター/司会】石光泰夫(東京大学)

パネル概要
20世紀の「身体」への関心は、ダンスの歴史において「舞踊言語」をいかにして記述するかという問題と深く結びついている。もっとも、ボーシャン=フイエ記譜法(1700年)のように、運動を記号として記録する試みは古典主義時代にも見られるものだが、しかし詳細な動作まで記録することを可能にしたのは、20世紀前半のドイツの振付家ルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban, 1879-1958)による記譜法(ラバノーテーション)であろう。ラバン以降のダンス史において、「舞踊言語」とも言うべき、運動する身体の言語性への着目は絶対的に無視できないものである。こうした問題意識は、たとえば1950-60年代以降のアメリカにおけるポスト・モダンダンスの「スコア」や、同時代の日本に興った暗黒舞踏の源泉としての詩的イメージ、あるいは現代ドイツにおいてウィリアム・フォーサイス(William Forsythe, 1949-)が開発した「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」などへと継承されている。
本パネルでは、以上のことを念頭に置きつつ、ダンスにおける「言語としての運動/運動としての言語」が孕んでいる問題性を、フランス、日本、ドイツという三つの異なる状況から分析することを試みる。全く異なる文脈からの分析を並べ置くことによって、20世紀の表象文化の争点である「身体」が、身体芸術としてのダンスにおいて、いかなる問題を提出してきたのかについて考察することが、本パネルの狙いである。(パネル構成:藤堂寛子)

「残酷」の萌芽としてのニジンスキー/堀切克洋(東京大学)
「残酷の演劇」で知られるアントナン・アルトー(1896-1948)がパリに上京したのは、1920年のことだから、彼がヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1950)の踊りを見た可能性は皆無であった。実際にアルトーの著作のなかにおいては、バレエ・リュスに関する言及こそ見られるものの、ニジンスキーの踊りについての言及は見られない。アルトーの「残酷の演劇」における俳優論・身体論の起点のひとつは、1931年の植民地博覧会におけるバリ島の「舞踊言語体系」の厳密なコード体系がもたらす効果であったが、そのような機械的な運動の肯定は、むしろ隣国のオスカー・シュレンマー(1888-1943)が実験的に生み出そうとした身体のあり方に近いようにも思われる。
 しかし、決して出会うことのなかった両者(アルトーとニジンスキー)のあいだには、踊る身体が生み出す運動の象徴性の探求という点から見れば、きわめて類似した問題意識が認められるのではないか。このような問題意識の下で、本発表では、戦間期パリにおけるニジンスキーに関する言説を整理しながら、「残酷の演劇」における舞踊の位置づけと比較考量する。またさらに、最終的にそれが『演劇とその分身』(1938年)に代表されるアルトーの独特な身体論(「感性の体操」「セラファンの演劇」など)のなかで、いかなる演劇論へと結びついていくのかを明らかにし、同時代の舞踊と演劇の接近についても考えてみたい。

土方巽から大野一雄へ──言語によるイメージの身体化をめぐって/宮川麻理子(東京大学)
舞踏の創始者としてまず名前が挙がるのは土方巽(1928—1986)であり、その伴走者として大野一雄(1906—2010)も重要な位置を占めている。初めて共演した1959年の『禁色』以降、二人の関係は舞踏の発展の歴史を語る上で外せないものとなっているが、舞踏が形成されていった60年代が終わる頃から一定の距離を置くようになり、土方が再び大野の踊りに振付けとして参加するのは1977年の『ラ・アルヘンチーナ頌』以降のことである。また、ある時期を境に土方は踊らなくなったのに対して、大野は生涯現役の「ダンサー」であった。
 土方は70年代以降、公演に際して弟子たちに振付けをする必要性から、膨大な動きのコレクションとしての「舞踏譜」の創作に着手した。ここでは、詩的な言葉や絵画から触発された言葉によってイメージを身体化する試みがなされたと言える。このような言語による振付けは、土方が1977年以降大野に対して行った振付けに際しても用いられた方法であるが、土方による言葉と大野の舞踏との関連性は未だ明確になってはいない。さらに、大野自身、作品の創作のために数多くの言葉を書き残している。
 よって本発表においては、1977—85年の土方振付けによる大野の舞踏作品を中心に据え、詩的言語が引き出すイメージとその身体化を、大野の踊りの中に見出すことで、言語による振付けの可能性と、「身体化された言語としての舞踏」の意義を改めて考察していく。

コンテンポラリー・ダンスにおける「舞踊言語体系」の機能──ウィリアム・フォーサイスの場合/藤堂寛子(東京大学)
かつてルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban, 1879-1958)がダンスをスコア化しようとしたとき、そこで前景化したことは、いわば「舞踊言語体系」というべきものが、ダンスの思考(どのようなムーヴメントを生み出すかということ)を支配しているということであった。また1960年代アメリカで広く支持されたポスト・モダン・ダンスにおいては、「スコア(舞踊譜)」を操作することでダンスの新しいあり方を模索しようとする試みがなされ、それ以降のダンス制作において、「舞踊言語体系」を問題の中心に据えることを、避けて通れないものとしたのであった。
たとえばウィリアム・フォーサイス(William Forsythe, 1949-)は、伝統的なクラシック・ダンスに内在していた、ムーヴメントを実践するその度ごとにもとの「舞踊言語体系」が揺るがされ、変化を蒙るという事態に着目し、これをモデルにした「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」を開発した。この「インプロヴィゼーション・テクノロジーズ」は、いまやクラシック・ダンスを脱構築することからはなれて、「振付家ウィリアム・フォーサイス」のムーヴメントを脱構築するという次元で駆動している。
本発表では、コンテンポラリー・ダンスにおける「舞踊言語体系」が、これまでいかなる過程を経ることによって、いかに現在のように機能するものになっているのかということについて、主に1960年代ポスト・モダン・ダンスと、ウィリアム・フォーサイスの仕事に依拠することで検証することを目的とする。