2022年7月2日(土)13:30-16:15
1階120番教室(ハイブリッド中継)

 食は私たちひとりひとりの生の持続を可能にする。それら無数の生の絶えざる連鎖が人類の歴史を紡いできたのだとすれば、食とは歴史の条件のひとつである。食はまた人と人とを繋ぐ。食卓を囲み、時にたわいもない会話にひたりながら同じ食べものに興ずることで、「共に生きる」私たちのありようの欠くべからざる部分がつくられる。このような意味で食とは、歴史を可能にし、また共同体を可能にする時空間的な「メディア」である、とひとまずは言えるだろう。

 いまだ収束のみえない新型コロナウィルスの世界的な流行は、そうした「メディアとしての食」のありように、根本的な疑義を突きつける事態であった。マスクの装着はいつか日常化し、それを外さないことには成立しない「会食」という文化は、公衆衛生の名のもと、その存立可能性の困難に直面したまま今日を迎えている。今回3年ぶりに完全対面で実施される表象文化論学会大会も例外ではない。かつては皆でテーブルを囲みつつ談笑した夜の懇親会の時間はプログラムから抹消され、代わりに設けられた歓談会も、マスクの着用そして飲食物の不在を条件にして実施される。

 そこにあるのは「口」という器官の不在、身体と外界との境界をなす器官の徹底した不在だ。飲食と呼吸と言語とがともに生きられる「口」という器官を互いに晒しあうことが注意深く退けられたまま、いたずらに経過してしまった時間としてのコロナ禍。その禁忌の時間とは、食のメディア的性格をわれわれの生の前提とすることそれ自体が、徐々に相対化されてゆく時間でもあったと言えるだろう。いや、感染症の問題はきっかけに過ぎなかったのかもしれない。「孤食」が社会的に問題化されるようになってからすでに長い時間が経過し、また口を経由せずに栄養を摂取して可能となる生の姿も、21世紀の社会においてはけっして珍しいものではあるまい。冒頭に記した「メディアとしての食」の姿とは、なかばは不在をめぐるイリュージョン、あるいはノスタルジーに過ぎないのかもしれない。

 ロラン・バルトを参照しつつ、ここであためて問い直そう。
 われわれは、いかにして共に食べ、いかにして共に生きるか。

 今回のシンポジウムでは、食にまつわる思考を固有の専門性から深めてきた歴史学者、美学者、美術研究者、そして人類学者による議論を通じて、このきわめて現代的であると同時に本質的な問題を、複数の視点から捉え直してみたい。そこから浮かびあがるのはおそらく、食と共生のユートピアへの郷愁とは一線を画した、「メディアとしての食」のあらたな相貌となることだろう。その相貌の断片のいくつかが、ここに久しぶりに集ったひとりひとりの生になんらかの刻印を残すことを期待したい。

藤原辰史(京都大学)
河村彩(東京工業大学)
星野太(東京大学)
コメンテイター:磯野真穂(人類学者)
司会:福田貴成(東京都立大学)