日時:2019年7月7日(日)10:00-12:00
場所:総合人間学部棟(1B06)

・教育モデルとしてのラボラトリー──1930年代アメリカにおけるデザイン教育改革を事例として/印牧岳彦(東京大学)
・社会主義都市のシュルレアリスム──建築設計教育におけるアルド・ロッシの〈手法プロセデ〉/片桐悠自(東京理科大学)
・芸術論と教育論が出会うとき──ランシエールとその受容者とのあいだで/鈴木亘(東京大学)
【コメンテーター】鯖江秀樹(京都精華大学)
【司会】池野絢子(京都造形芸術大学)

芸術を社会との関係において捉える見方が一般化して久しいが、その際、教育という回路がしばしば重要な役割を演じてきた。本パネルでは3つの異なる地域・時期に焦点を当て、20世紀から21世紀に至るまでの、〈芸術を教える/芸術によって教える〉という問題系の展開を考察する。
印牧の発表では、1930年代アメリカに焦点を当てる。特に「デザイン・ラボラトリー」と「デザイン・コルリレーション・ラボラトリー」という二つの教育機関を取り上げ、芸術教育における「ラボラトリー」という隠喩の意味を当時の社会状況との関連の中で読み解く。片桐の発表では、アルド・ロッシ(1931-1997)の、建築設計教育における社会主義理念とシュルレアリスムへの関心を扱う。「熱い秋」の当事者でもあったロッシは1963年から大学教育に携わり、1971年にミラノ工科大学教授職を罷免された。「教育の才能はなかった」と振り返る彼の、建築設計における無意識の言語化・分析を跡づける試みを行う。鈴木の発表では、ジャック・ランシエール(1940-)を取り扱い、近年の英語圏におけるランシエール受容および彼の美学・教育的な問題意識に焦点を当てる。68年5月に強く影響を受けたランシエールは、キャリアの初期から「教える者−教えられる者」の関係を絶えず問い直してきた。
以上の発表を通じ、避けがたく社会に条件づけられつつも能動的に社会変革を希求するという、芸術のダイナミズムの一端が提示される。


教育モデルとしてのラボラトリー──1930年代アメリカにおけるデザイン教育改革を事例として/印牧岳彦(東京大学)
1930年代アメリカのデザイン教育においては、旧来のボザール式の教育からモダニズムへの大きな転換が起こった。この過程においてバウハウスからの亡命者が果たした役割はよく知られている一方、バウハウスの影響を受けつつ、合衆国内で内発的に行われた教育改革についてはさほど知られていない。
本発表ではそうした事例として、ニューディール下の文化政策の一環として1936年に開校したデザイン学校「デザイン・ラボラトリー」と、コロンビア大学で1937年に開設された「デザイン・コルリレーション・ラボラトリー」を取り上げる。前者ではインダストリアル・デザイナーのギルバート・ロード、後者では建築家フレデリック・キースラーがそれぞれディレクターを務めた。本発表で着目するのは、両者の名に冠された「ラボラトリー(実験室)」という隠喩である。これらの機関の背景には、ジョン・デューイによるシカゴ大学実験学校のような教育の実験、あるいはロックフェラー医学研究所のような自然科学の実験室が先行するモデルとして存在し、「デザイン・ラボラトリー」においてはデューイの思想「為すことによって学ぶ」が実践される一方で、「デザイン・コルリレーション・ラボラトリー」ではデザイン教育に生物学的なモデルが導入された。本発表では、二つの教育機関の背景と実践の検討を通して、両者において「実験室」というモデルが担った意味とその差異を明らかにすることを目的とする。

社会主義都市のシュルレアリスム──建築設計教育におけるアルド・ロッシの〈手法プロセデ〉/片桐悠自(東京理科大学)
ミラノ工科大学教授として教鞭をとったアルド・ロッシ(1931-1997)は、大学に労働者バラックを受け入れたことで1971年に教授職を罷免された。ウィトゲンシュタインの思想と建築への関心のもと、建築設計教育における言語化および分析手法を模索したロッシは合理主義建築運動「テンデンツァ」を組織し、設計教育における「自伝」理念が罷免後も教え子に継承された。運動における弟子たちのテクスト集『合理的建築』(1973)には「社会主義都市」と芸術についての理念的伝播が見受けられる。
主著の一つの『科学的自伝』(1981)や死後公刊の手記『青のノート』(1968-1991)、罷免直後のメモ「自己形成に関する自伝的覚書」(1971)で、ロッシは「シュルレアリスム」への興味を顕にしている。作家の中でも、アンドレ・ブルトン、ジョルジョ・デ・キリコ、レーモン・ルーセル、ジョルジュ・バタイユを「シュルレアリスト」として位置づけ、彼らへの関心が反復して言及される。彼の「類推的都市」概念は、バタイユの〈至高性〉およびルーセルの「付加過程」と関連付けられ、精神分析への関心へと至る。
本発表では、1968-1971年の時期におけるロッシの建築設計教育における平面図およびドローイング、コラージュ技法といった図像の言語化を扱い、大学教育への〈手法(プロセデ)〉的展開を考察する。具体的には、『青のノート』が執筆開始時の「社会主義都市」と「シュルレアリスム」の関連、および理念的伝播を論じる。

芸術論と教育論が出会うとき──ランシエールとその受容者とのあいだで/鈴木亘(東京大学)
ジャック・ランシエールの著作が同時代のアートシーンに膾炙して久しい。中でもしきりに言及されるもののひとつに、リレーショナル・アート等に触れた『解放された観客』(2008)がある。ところで、その影響力と並んで重要なのが、彼が『無知な教師』(1987)で展開した教育論の発想が、『解放された観客』で初めて美学と結びつけられている点である。さらにランシエール曰く、この結びつけは内発的動機に基づくものではない。それは、『無知な教師』の発想をもとに観客について論じてほしい、という或る国際会議からの依頼によるものであり、それまで彼はこの自著と観客の問題との間に何の関係も想定していなかったと告白しているからだ。
他方、『解放された観客』以前の英語圏美術界におけるランシエール受容の中では、英訳の逸早い刊行もあって、美学的著作群よりも『無知な教師』が最も読まれたテクストだったという。かかる意味で、ランシエール自身の思想展開とその受容との間にねじれが存在したわけだ。では、ランシエールの教育論に触発されてきたアーティストと、それまでこうした動向とは独立に美学を論じてきたランシエールが出会ったとき、芸術と教育との関係を巡っていかなる対話が形成されたのか。本発表は2007年に『アートフォーラム』誌により組まれたランシエール特集を中心に検討し、『解放された観客』刊行前後における、芸術と教育の絡み合いの有様に光を当てる。