PRE・face

参照項を増やす——〈現場〉と出会いなおすために
内野 儀

本学会とも少なからぬ関係がある京都造形芸術大学の舞台芸術研究センターというところが中心となって、『舞台芸術』という雑誌が刊行されています。わたしはその第一期(2001〜2006)に時評(全9回)を担当し、第二期(2007〜)には編集委員のひとりに加わらせていただきましたが、その際、英語で書かれた論文の翻訳紹介をすることを自らの役割に定めました。論文といっても、舞台芸術の〈現場〉に近いところで書かれたものを適宜選択して、ということになります。日本語圏ほど舞台芸術の〈現場〉と学術研究の〈現場〉が乖離している場所はかなり珍しいという問題意識がわたしにあったからです。

翻訳そのものは東大大学院表象文化論コース博士課程在学中で、本学会員でもある小田透君に手伝ってもらい、わたしはなるべく平易な言葉で、その論文の歴史的・理論的位置づけを論じる解題を書くというふうに、役割分担をしています。

学術研究の〈現場〉は、人文学の危機とは言われるものの、それはむしろ時代環境的要因のほうが強いように思えてなりません。たとえば本学会の学会誌である『表象』第3号について、編集長などというわたしには分不相応な職を与えられてしまいましたが、今のところなんとかその仕事をこなせているのも、編集委員会を構成する若手研究者たちの知的強度としか呼びようがない熱意があってのことです。表象文化論という新しい学問分野において、その定義を常に試みながら枠組み自体の更新を目指し、同時に学術研究の基本をけっして忘れないという彼・彼女たちの姿勢には、編集委員会の席上、いつも感心させられます。確かに若い〈知〉が育ちつつある、生み出されつつある、そう感じます。

同じ若手であっても、舞台芸術の〈現場〉にいる人々は、同じ意欲をたとえもっていたとしても、日本語圏では、それが生かされることはなかなかむずかしいようです。とにかく参照項が足りないのだといつも痛感させられます。勉強不足くらい自分で解消しなさい、と口にすることはできますが、一方では〈芸術〉市場、他方では自閉的サブカル空間しか見えないわけですから、〈知〉を蓄えるどころか感性を鍛える環境すらないに等しいわけです。

学術研究の〈現場〉と舞台芸術の〈現場〉が言葉を共有するために、新しい対話の形態が探られなければならないのだと思います。ただ、「降りてゆく」という古典的身振りがもはや有効ではないのが今の時代なのは明らかです。そこでわたしは、〈現場〉の参照項を少しでも増やす一助になればと、最近の英語圏で〈現場〉に近いところで書かれた論文を紹介することを思い立ち、一連の紹介作業を開始しました。

わたしにできることはその程度でしかありませんが、本学会に所属している舞台芸術関係の若手研究者の方々には、その貴重な知的才能を学術研究の範疇にとどめることなく、あるいは、〈知〉の産業に「使われて」しまうだけでなく、〈現場〉との対話の新しい回路を切り開くために「使って」いただければと思う次第です。〈知〉の生産性から芸術の創造性へ。〈人文知〉の社会還元などというものが想定できるとすれば、おそらくそういうことになるのではないでしょうか。

2008年11月
内野 儀(東京大学)