第2回大会報告 大会の印象

セオリー全般を網羅する「表象文化論」は、体制化された学問分野に納まりきれず、現在の社会や文化活動にアクチュアルに作用する主題を扱うという意味で、とても刺激的である。しかし、それが本来もつ批判性は、過剰な先鋭化、排他性を引き起こす危険性をはらんでいるのかもしれない。私が働いているシンガポール大学の建築学科においても、セオリーに携わる人々は少数派に属し、なおかつ、個人主義に徹するため、なかなかまとまった力を発揮することができないでいる。また、セオレティカルな建築アプローチ自体を理解する人々が少ないのも、力を発揮できない大きな要因だといえる。こうした中、私たちが考えなくてはいけないのは、いかにして、セオリーのもつ「批判性」を保ちながら、なおかつ、それに人々を巻き込み、空間的に拡大していくかということであろう。それは、イデオロギーを共にするコミュニティーをつくることではなく、むしろ多様な思考をぶつけ合い、包括していくような「空間」の創造なのだと思う。

このような意味で「表象文化論学会」は一つの指標を示してくれる。表象文化論は雑誌や本を通して、アカデミックな領域だけではなく、一般の読者にまで浸透してきた。また、去年設立した「学会」は、発表、意見交換、討議のための「空間」を創出し、その地盤をより確かにしているといえる。今回、「大会」に参加し、感じたことは、この「空間」が実質的に存在するということであり、高度な探求や新鮮な問いを見ることができたということである。

大会一日目の「拡張するユマニテ、揺動する表象」は、自らが参加したシンポジウムではあるが、他のパネリスト、コメンテーター、また司会者のおかげで、有意義なものになったのではないかと思う。ここで主題となった「ポストヒューマン」と、全体性に抗うという意味での「エンボディメント」への問いは、異なるディスシプリンや探求の仕方で 多様な側面を表し始める。佐藤良明氏が映画「セブン」を用いて説明する「動物化する人間」は、プレヒューマンとポストヒューマンの関係を示唆し、山内志朗氏の中世から近世にかけてのrepraesentatioの移行は、情報化社会における「インフォメーション」を根本的に考える契機を与えてくれる。リピット水田尭氏が、映画「Deanimated: The Invisible Ghost」を通して語った、音声を消し、映像の中で口をふさぐこと――expressionを封じ込めること、によって起こる奇妙さや違和感は、まさにメディアという全体性の中で起きる「エンボディメント」を意味しているように感じられる。「ポストヒューマン」という主題のもとで、話をダイナミックに展開できたのは、北野圭介氏の、本質的に議論にもってゆくアプローチに負うところが大きい。私も建築を通して少しでも関与できたとしたら, 幸いだが。

巻上公一氏とマキガミックテアトリックスによるパフォーマンスは、演劇がもつ面白さを最大限に活かした「実験」であるように感じられた。「宇宙語」は、それがもつ意味を知ることができないが、肉声である限り、音やリズム、そして発声するパフォーマーの身体を同時に伝達する。また、それは、何を伝えているのか分からないが、何かを伝える言葉であるということを感じさせるものでもある。そのような意味で、オーディエンスの側の文脈で意味が生成してくるような、またはしないような、そんなアンビヴァレンスを感じさせる作品ではないだろうか。肉声が機械音のように、機械音が肉声のように聞こえてくるのも、興味深い点である。しかし、このような意見は、専門知識を持たず、かつ、直前のシンポジウムの主題「ポストヒューマン」の影響下で見てしまった私が見当はずれなことを言っているようにも思える。

二日目、「開化と啓蒙――近代日本における知の変容と再配置」の発表では,日本の近代化における「内部性」、「外部性」の問題について、鋭い着目点や論理の展開を見ることができた。武田将明氏の「仮構の内発性」、大橋完太郎氏の「二つの啓蒙」、金杭氏の、丸山真男の福沢解釈から生まれる「個人の決断と国家主義」、いずれもナショナリズムについてのディスコースを前進させる契機となるような論文である。日本近代建築におけるナショナリズムの変遷とも相通ずるところがあり、非常に参考になったセッションである。

時間の関係上、二日目のセッションを多く参加することができなかったが、参加したものは、どれも充実した興味深いものだった。そして何よりも、多様性を包括するこの学会のスタンスが魅力的であった。ぜひまた参加したい学会である。最後に、準備、裏方で努力してくれた方々に感謝したい。

坂元 伝(シンガポール国立大学)