第12回研究発表集会報告

研究発表2

報告:伊藤未明

日時:10:00 - 12:00
場所:武蔵大学江古田キャンパス8号館5階8502教室

19世紀末フランスにおける音楽演奏の視覚記録化の試みとその思想──音楽の自然科学的図像表象の音楽思想に与える影響についての一考察
山上揚平(東京藝術大学)

アクースマティック音楽再考──1970年代フランソワ・ベイル作品における聴覚イメージの知覚横断性について
宮木朝子(東京大学)

出来事のノイズ──映画『ポーラX』について
根本裕道(立教大学)

【司会】福田貴成(首都大学東京)


本パネルでは、音や音楽における表象の問題についての研究発表が行われた。表象文化論学会において、音響やその聴取あるいは制作に関するテーマが取り上げられることが増えていることは、誠に喜ばしい限りである。

山上揚平氏は、19世紀末フランスで鍵盤楽器演奏を視覚記録に残すための装置が制作されたことを取り上げ、身体運動の科学的記録の試みと音楽の実践が互いに影響しあうことを論じた。発表では、生理学者ジュール・マレー、心理学者アルフレッド・ビネ、ピアニスト/作曲家のマリー・ジャエルのそれぞれによって考案された音楽演奏の視覚記録システムが、ケーススタディとして取り上げられた。マレーはオルガン演奏において鍵盤が押される状態を時間軸に沿って記録する装置を製作し、さらにビネはマレーの装置を改良し、ピアニストの打鍵の力の変化も記録できるようにした。この二人の試みは、確かに音楽実践を視覚的に記録する装置ではあるが、奏者の指使いを記録するものではないという意味において、演奏行為そのものの記録ではない。これに対してジャエルの方法は、単なる演奏の視覚記録というだけでなく、記録されたデータによってピアノ奏法の習得と訓練の質を向上させるという目的を持っていた。それは、ピアニストにインクを塗った指で演奏させることにより、鍵盤上のどの位置に、どの指で、どのように触れたのかを記録するものであり、演奏者の身体運動の記録に近いものであった。ピアノ演奏者にとってジャエルの方法による視覚記録は、身体運動訓練における手本を示すメディウムであると同時に、演奏における美を表象するものとしても機能したのであり、生理学的に調和がとれた運動が美学的な調和を生み出すというジャエルの思考がその背景にあることが指摘された。そして指紋の連なりの図像は、図像それ自体の美が鑑賞の対象となることを通じて、単なる音楽実践の科学的記録としての図表の範疇を超え、音楽における美的なもののイメージに変容しているという興味深い考察が提示された。質疑では、これら3人の科学者/音楽家による試みの時代的な背景や、ジャエルの聴覚/視覚/触覚に関する考え方について補足の説明が加えられ、「指紋の連なりの美しさをイメージしながら演奏することによって、触覚(タッチ)の鋭敏化が実現できる」というジャエルの考え方は、科学的な身体動作の管理と美学的な審級を直接的に結合させてしまった興味深い事例であることが指摘された。

宮木朝子氏は、1970年代にフランソワ・ベイルによって考案された電子音楽上演システム「アクースモニウム」を取り上げた。このシステムは1940年代にピエール・シェフェールによって創始されたミュージック・コンクレートを、新たな枠組みで読み直し、具体的な聴取体験を提供する装置として考案された。シェフェールのミュージック・コンクレートにおいては「音そのものを聴く」という聴取体験が重視され、音の発生源につながるような知覚情報を排除し、一切の連想や想像を誘発することを許さないような聴取体験が企図された。それに対して、ベイルのアクースモニウムは、他の感覚から孤立させられた音響が、むしろ連想や推測を誘発することを積極的に利用して新しい聴取体験を創出することを目指している。発表では、ベイルのアクースモニウムが複数のスピーカーを暗闇の中に配置することによって、視覚遮断された空間に音響を投影するシステムである点に着目し、この装置が産出する聴取体験はその多知覚性によって特徴づけられることが指摘された。すなわち、アクースモニウムは、暗闇で上演することによって視覚情報を遮断し、音素材の加工や音源の定位変化によって習慣的な聴取を攪乱するものであるが、その結果としてもたらされる聴取体験は、知覚の制限ではなくむしろ多様なイメージが生成されるような聴取体験なのである。こうしてベイルのシステムは、シェフェールが創始した電子音楽の実践に、「みることなしに聴く」から「みえないものを(知覚的横断的に)聴く」へ、というパラダイム変換をもたらしたもの、と宮木氏は位置づけた。質疑では、ベイルと同時期に実践されていた他の作曲家の取り組みとの関係についての質問があった。その応答の中で、ピエール・ブレーズやシュトックハウゼンのように立体音響空間を緻密に制御しようとする方向性とは異なり、ベイルの問題意識は、視覚遮断によって聴覚のみを手掛かりとした音響空間を構成することにより、聴き手のうちに知覚横断的なイメージを創出することにあるのだという相違点が指摘された。また、もう一人の同時代人リュック・フェラーリは、視覚を積極的に聴取と結びつける(あるいは衝突させる)作品制作を行ったが、知覚横断性の重視という点ではベイルの方向性と親和性があるとも考えられることも議論された。

根本裕道氏の発表は、ノイズの概念を音響の枠組みを超えた諸相に位置付ける試みであり、その議論の題材としてレオス・カラックスの映画『ポーラX』が取り上げられた。映画の冒頭で引用される「この世の箍が外れた」という『ハムレット』からの引用を取り上げ、攪乱し変容させる契機としてのノイズを概念化することが、この発表の企図であった。発表では、ドゥルーズの「音声的」「音調的」の区分を参照することにより、『ポーラX』の中で聴こえてくるスコット・ウォーカーの手によるノイズ音響の効果音や、登場人物たちの意味の不明瞭な声という音声的ノイズ群とは別に、より存在論的な水準で機能する音調的ノイズを判別できることが指摘された。すなわち根本氏は、物的な音源から発せられる音響として聴取されることはないが、登場人物の自我や世界の変容を生じせしめる契機を、音響や音声的ノイズよりも根源的な位置づけを持つノイズであるとして、音調的ノイズと名付けた。根本氏はこのようなノイズによって出来する存在論的変容を、「出来事の非共可能性」のイメージであると規定し、無音の(あるいは、物理的な音響現象ではないような)音調的ノイズによって表現されているのだ、と結論付けた。質疑では、発表で導入された「音調的ノイズ」や「出来事の非共可能性」といった概念について追加の説明を求める質問があった。その応答において、音調的ノイズと音声的ノイズという対概念はある一つのノイズをどちらかにカテゴライズするものではなく、同じ一つのノイズがこれら2つの異なる性質を持つことを分析するための概念であることが補足された。また音調的ノイズは、通常考えられるような「ドミナントな信号に対比されるものとしてのノイズ」として位置づけられる概念ではなく、そうした二項対立的な対比の枠組みそのものを破壊あるいは攪乱するような作用を、ノイズ概念の中に見出すために導入されていることも強調されたが、これについては発表者による更なる詳細な検討が望まれた。

パネルを通じて音響現象あるいは聴取体験が、ピアノ演奏、電子音楽、ノイズというそれぞれの視点から議論されたわけだが、音響現象の文化的な意味を、聴覚以外の知覚やイメージとの関連の中で分析するという研究の方向性は共通していたように思われる。音表象を論じるときにどうしても視覚的なアナロジーが介入してくる、というような現象をどのように考察するかという点は、既に2014年7月の表象文化論学会第9回大会でも討議された問題(2015年刊行の『表象09』を参照)だが、本パネルの発表者が取り組んだように具体的な音響現象(音楽演奏実践、電子音楽作品、映画)を詳細に分析することによってこそ、そうした問題の議論を深めることができるであろうと思われた。

伊藤未明


【パネル概要】

19世紀末フランスにおける音楽演奏の視覚記録化の試みとその思想──音楽の自然科学的図像表象の音楽思想に与える影響についての一考察
山上揚平(東京藝術大学)

現代音楽文化の根底を支える「録音」技術の始原としてその名が挙げられるE-L. Scott de Martinvilleのフォノトグラフは、それまで束の間の形でしか捉えられなかった音を波形として視覚的に固定し、分析可能な「科学的」図像へと変換する装置であった。聴覚現象を視覚的図像として保存し読み解くという科学的実践の本格的な始まりを告げるこの19世紀後半という時代、やはり同じフランスに於いて、また別様の視覚記録の試みが音楽と科学の境界で行われていた。その一例が鍵盤楽器演奏の記録化である。しかしピアノロールやメログラフとは異なり、演奏再現(=音の再生)から完全に切り離された音楽演奏の視覚記録は果たしてどの様な意義を持ち得るのだろうか。本発表では生理学者E-J. Marey、心理学者A. Binet、音楽家M. Jaëllらの試みを具体的に取り上げ、これらを可能にした共通の技術的条件と共に其々の背後にある学術的文脈の差異をも浮き彫りにしながら、この問題を再検討する。中でも今回特に着目するのは女性作曲家兼ピアニストJaëllが行った指紋によるタッチの記録である。彼女にとってピアニストの残す指紋の連なりは、単なる演奏記録や正しい技術習得のための「科学的」指標を超えて、音楽聴取と同様の美的鑑賞の対象となり、果ては未知なる音楽的法則を読み解くべき啓示の地位を得る。これは、実証科学による音響及び音楽行為の視覚的な表象/図像化が、音楽家側にどのようなフィードバックをもたらし得るのか、その可能性を再考させられる一例となろう。

アクースマティック音楽再考──1970年代フランソワ・ベイル作品における聴覚イメージの知覚横断性について
宮木朝子(東京大学)

1940年代にフランスで開始されたミュージック・コンクレート及び、その発展形である、固定メディアに定着された電子音響音楽=アクースマティック音楽の創作では、外界に存在するあらゆる聴取可能な音響現象が、音楽を構成する素材となりうる。それは、使用する音素材を音律のコントロールが可能ないわゆる楽音のみに限定して発展してきた西洋音楽の歴史の中で大きな転換点ともなる、ノイズへの着目の一連の試みのひとつとして捉えることもできるが、同時に、消滅する振動現象であった音を、録音という技術によって複製反復可能な物質性を持つ存在へと変換する行為を基盤としている。その創始者であるフランスの作曲家フランソワ・ベイル(1932-)の作品の分析結果からは、そこにおける聴覚イメージの知覚横断的性質を見出すことができる。本発表では、「耳のための映画」といわれるこの聴覚メディア芸術、アクースマティック音楽と、その上演システムとしての、視覚遮断の暗闇の空間で多数のスピーカーをリアルタイムに出力コントロールする立体音響システム=「アクースモニウム」による音響投影について、現在の視点からの再考を試みる。その際、最初期である60年代末から70年代にかけてのベイルの作品を、「聴取における自動性と主体性の相互浸透」「ステレオ音像による聴覚イリュージョン」「知覚遮断の空間における多知覚性の出現」の3つのキーワードから検証する。

出来事のノイズ──映画『ポーラX』について
根本裕道(立教大学)

本発表は、レオス・カラックスの映画『ポーラX』(1999)の分析を行う。ジル・ドゥルーズの哲学を参照しながら、〈ノイズ〉と〈出来事の非共可能性〉という二つの論点から分析するという方法をとる。

『ポーラX』でスコット・ウォーカーが手がける楽曲のうち、いくつかのインダストリアル・ノイズ調の音楽は、映画の展開において非常に重要なシーンで用いられている。とりわけ『ポーラX』が主人公ピエールの転落や自我の崩壊の物語だと言われるとき、ウォーカーのノイズ・ミュージックはそうした狂気の音響化であると指摘されることが多い。本発表がノイズを論点にする理由は、このような「ノイズ=ノイズ・ミュージック」という図式を批判するためである。映画における音の構成要素としてノイズを見てみると、『ポーラX』ではピエールが執筆作業をしているときに発するペンの音や、ピエールの異母姉と名乗るイザベルという人物の声の方が遥かに際立った特徴を示している。さらにこのようなノイズが、映画における物質的・音響的な側面だけでなく、映画を構成する非物体的な〈出来事〉の次元にも作用していることを指摘する。

カラックスはエンドロールでGilles Dなる人物に謝意を示している。これがドゥルーズであることは容易に想像できる。ノイズと出来事はドゥルーズの『意味の論理学』でも論じられていることを踏まえると、本発表はドゥルーズの概念への参照が中心になる。

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年2月26日 発行