第12回研究発表集会報告

研究発表1

報告:小澤京子

日時:10:00 - 12:00
場所:武蔵大学江古田キャンパス8号館5階8501教室

19世紀英国の女優が抱えた「女性らしさ」との葛藤──エレン・テリーのオフィーリア理解をもとに
風間彩香(新潟大学)

女性+機械の身体表象分析──戦間期ドイツにおける芸術作品から
三枝桂子(筑波大学)

民族的他者と女性──『満洲グラフ』における植民地表象の様式
半田ゆり(東京大学)

【司会】小澤京子(和洋女子大学)


秋季の研究発表集会では、パネル単位での募集ではなく、個別の応募を受け、企画委員が何らかの共通性の元にいくつかの研究発表を一つのグループにまとめる形式が採られている。しかしながら今回のこの「研究発表1」では、「女性の表象」についてのジェンダー論的視点からの分析が、ヴィクトリア朝イギリス、戦間期ドイツ、そして15年戦争期における日本支配下の満州という時代的・地域的ヴァリエーションのもとに揃う偶然の僥倖に恵まれ、あたかも予め構成の練られた企画パネルのようであった。

風間彩香の発表は、ヴィクトリア期の女優エレン・テリーのフェミニストとしての立場を、彼女がオフィーリアという役柄に与えた解釈とその変容に着目し分析したものである。1878年にオフィーリアを演じたテリーは、「究極の女性らしさ」を体現していると賞賛された。しかし、彼女のオフィーリア解釈には革新性も見られる。草花で飾った長い髪と白い衣装(癲狂を表す)の代わりに、短髪とタイトなシルエットのドレスという、同時代の若い女性らしい格好を選んだのである。先行研究はシェークスピア上演の伝統との断絶に着目し、テリーのフェミニスト的立場の反映と解釈してきたが、風間はこの衣装を同時代の文脈に置き直し、より精緻に捉えようとする。当世風の服飾というリアリズムによって、オフィーリアは観客にとって馴染みやすい「普通の娘」として演出される。これは、観客たちの反応と自らの考える新しいオフィーリア像との間で、テリーが格闘したことの体現であると風間は結論づける。

晩年のテリーは、講演活動の中でオフィーリアの弱さを批判した。しかし19世紀末の段階ではテリーは、「新しい女(New Woman)」を体現することになる女優パトリック・キャンベルが演ずるオフィーリア像に難色を示している。この態度変容の契機を、風間はテリーの往復書簡や講演録をたどりつつ、演劇界、ひいてはイギリス社会における女性の置かれた状況の変化をこの女優が認識したことに求める。この一連の検証と考察から明らかになったのは、「女性らしさ」の体現という当時の一般的な受容とも、男性支配的伝統を覆した革新的フェミニストという先行研究の理解とも異なる、社会の状況を鋭敏に察知し、格闘や葛藤を経つつもそれを役柄の解釈に反映させた女優としてのテリーの姿であった。

質疑応答では、テリーのオフィーリア(普通の娘)もキャンベルによるもの(精神病院にも赴き、リアルな狂気を追究)も、共に一種の「リアリズム」であるが、当時はどのように受容されたのか、という問いに対して、テリーによるリアリズムは観客受けが主眼であったこと、また現実の精神病患者を目の前にしたキャンベルが「現実の狂気は過剰に芝居掛かっている」という(現実と劇場内の虚構の転倒した)印象を抱いたことが確認された。

三枝桂子は、戦間期のドイツにおける、女性身体を機械として、あるいは機械と融合したものとして表象した前衛芸術の作例を取り上げる。ミシェル・カルージュが著作『独身者の機械』で指摘する「不毛なエロティシズム」という規定を引きつつ、第一次大戦敗戦からファシズムの台頭へという時代的文脈とともに読み解くことで、「女性身体+機械」の表象において男性の精神的・身体的危機の投影や政治的状況への抵抗がなされていたことが明かされる。

前衛芸術運動が次々と興った時代でもある戦間期、ドイツでは男性の身体表象においても女性の身体表象においても、無機物や機械と接合するというイメージが盛んに生み出された。三枝はドイツにおける特筆すべき特徴として、傷痍軍人の表象に無機物のイメージが現れる点に着目し、そこでは人間そのものが交換可能な部品として表象されていると分析する。すなわち破壊された身体と医療技術がもたらした無機的な補綴物のハイブリットは、第一次世界大戦の帰結であり、新古典主義的な「完全な身体」という男性身体規範の崩壊の現われでもあるというのだ。

これと同時代に現れるのが、この発表の主題でもある女性身体と機械が接続されたイメージである。これらの「女性+機械」表象と「男性+機械」表象との相違を、三枝はエロティシズムやフェティシズムの強調に見出す。そして彼女たちを「独身者機械」の類型と位置付けた上で、その意味作用の分析を進めてゆく。まず、欲望(それは必ず挫折するがゆえに充足されることのない)の主体である「独身者」とは、いったい誰であったのかが明かされる。それは第一次世界大戦において身体を損傷し、無機物とのハイブリッドと化すことで、完全性の規範から逸脱してしまった男性たちである。現実の女性と対になることが出来ないがゆえに、女性と機械が接合したイメージこそが、彼らと対をなす存在として発明されたと、三枝は結論づける。

最後に取り上げられるのは、ベルメールの人形である。従来数多の言説が紡がれてきた対象であるが、三枝は「少女の人形」をナチスにとっての「無用な身体」(=生殖という「国家にとって有益な再生産」に与しない、成長しない身体)の表象と規定する。ファンタスムの投影という(従来しばしば指摘されてきた)性質も認めつつ、三枝はベルメールによる女性身体表象の中に、ファシズムへの抵抗の契機を見出すのである。

質疑応答では、身体そのものは欠損されていないが、シェル・ショックのような精神的損傷を抱えた男性も、一種の「傷痍軍人」として表象されていたことが、オットー・ディクスの作品などを例に確認された。ベルメールによる「少女」表象と彼以前の「女性+機械」表象との差異についての質問に対しては、ベルメールは先行するダダイストたちの「独身者機械」を、皮肉めいた視点から援用していた、という解釈が提示された。また、機械との接続による身体の完全化や拡張・増強という側面はなかったのか、という質問も提起された。現在、「身体と機械の接続」がエンハンスメントの文脈に位置づけうることを考えても、当を得た問いである。これに対して三枝は、戦間期ドイツの場合は、機械との接続に際してはむしろ陰鬱な身体の崩落や欠損が強調される、それは同時代のロシアの芸術潮流とも、ナチスが標榜してゆく理想的身体イメージとも異なる、ということを明確にしてみせた。

『満州グラフ』(1933年創刊)を分析対象に据えた半田ゆりの発表は、そこで表象された「民族的他者」に複数の層があること、「女性」イメージにも自己/他者に基づいた二極があることを、グラフ雑誌という特徴的なメディアと十五年戦争という時代状況との精緻な分析を通して明らかにするものである。

半田は「グラフ雑誌」を、「見るものにそれが現実であることを信じさせる写真の機能と、組み合わせとキャプションによって恣意的な物語を読ませることを可能にする力が掛け合わされた形で利用された媒体」と規定し、このメディアが1930年代以降に戦時プロパガンダの典型となったことを指摘する。『満州グラフ』は、国際的にもグラフ雑誌の初期の一例であった。半田はここで植民地における民族とジェンダー表象の政治性が、(報道写真家ではなく)反体制的な性格の強かった芸術写真家によって担われた点にも注意を促す。

『満州グラフ』での女性と民族的他者表象に見られる特徴は、「民族的他者の女性化」という類型的な構図に収束できないものであり、半田はそれを「女性性の分断」と規定する。すなわち、原始的で新奇な民族的他者としてリスト化・階層化される(つまり、典型的な「オリエンタリズム」の眼差しの下におかれる)満州国内の満族・漢族・朝鮮族・モンゴル族の女性たち、都市部にあっては近代的な主体として表象される一方で、農村部の開拓村においては日本の前近代的家族規範の体現者として描かれる日本人女性たち、さらに、民族的他者として憐憫の対象とされるのと同時に、ヨーロッパ的近代性の具現としての憧憬も投影されたロシア人女性たちである。半田はこの「複雑な階層化」を、アジアの盟主とヨーロッパ型帝国主義国家の双方を目論んだ当時の日本が内包していた、帝国主義イデオロギーの葛藤の所産と分析する。さらに、とりわけ「女性」がイメージとして選ばれたことについて、そこには満洲を内地であり外地、日本であり日本ではない場と化さしめる力が働いていた、と結論づける。すなわち、『満州グラフ』における女性表象は、植民地としての満洲の政治的条件と一致したものであった、というのである。

質疑応答では、1930年代以降のプロパガンダ変容、とりわけ1937年日中戦争以降、1940年代米英との戦争開始以降のプロパガンダと『満州グラフ』の異同と、満州への移民を促進するための表象という目的もあったことの補足がなされた。また、民族的他者表象におけるジェンダー差について、ロシア人男性を強調するイメージは『満州グラフ』には登場しないこと、またロシア人女性(およびその他の民族的他者)と日本人男性が共に描かれることはないこと、つまり他民族と日本人が並存して描かれることはなく、前者はあくまでも「他者」として切り離されていたことが確認された。

小澤京子(和洋女子大学)


【パネル概要】

19世紀英国の女優が抱えた「女性らしさ」との葛藤──エレン・テリーのオフィーリア理解をもとに
風間彩香(新潟大学)

19世紀英国を代表する女優エレン・テリーは、1878年にシェイクスピアの戯曲『ハムレット』のヒロイン、オフィーリアを演じ、以降大女優として社会に認められる。本発表では、テリーが舞台上で演じたオフィーリアと、晩年の講演での記述の二つの側面から彼女のオフィーリア理解を探る。

先行研究では、オフィーリアは長髪で白い衣装で演じられるべきという、男性の視点に根ざした伝統に挑戦した最初の女優としてテリーをとらえるのみである。本発表ではまず、オフィーリアを演じた歴代の女優の図像や19世紀の女性向けファッション雑誌を参照し、テリーが当時の女性の服装で演じることで、19世紀という文脈の中での普通の娘としてオフィーリアをとらえたことを明らかにする。加えて、テリー自身の劇脚本への書き込みや劇評から、テリーの表出したオフィーリア像と、その受容を探る。

またテリーは1911年の講演で、独自の強さをもつシェイクスピア劇のヒロインを賞賛する一方で、オフィーリアの弱さを徹底的に強調することから、先行研究ではオフィーリアを演じた女優としての社会的イメージを彼女は嫌悪していたと簡単に断定する。しかしこの講演は、テリーの女優参政権同盟(Actresses’ Franchise League, 以降AFL)との関わりの中で考える必要がある。AFLとは1908年結成の女性参政権組織で、演劇の演出・上演を通して女性参政権に対する理解を広く得るため、教化と同時に娯楽性も重視し、ラディカルな女性表象と社会的に受け入れられやすい女性表象をバランスよく提示した。劇脚本からの台詞も多く含まれたテリーの講演は、講義でありながら一人舞台でもあった点で、教化と娯楽性をあわせもつAFLの演劇と通底するものがあった。そしてオフィーリアは、女性的弱さが否定されるべき存在でありながら、大衆の注意関心をひく上で利用すべき存在であった。自身の論を主張するためにフェミニストとして糾弾すべきオフィーリアの力を借りざるを得なかった女優テリーの葛藤に光を当てたい。

女性+機械の身体表象分析──戦間期ドイツにおける芸術作品から
三枝桂子(筑波大学)

第一次世界大戦後のドイツの芸術作品には、人間の身体を機械や人形などの無機物のイメージを利用して描写されているものが数多くある。人間の身体が生命力みなぎる生き生きとしたものではなく、むしろ生きているのかどうかも曖昧な、虚無を感じさせる存在として表象する趣向がこの時代に爆発的に現れた。本発表はその中でも女性と機械が組み合わされた身体表象に注目し、このようなイメージが現れた背景に潜む、ドイツにおける身体理解の問題について分析を行う。E.T.A. ホフマンの小説『砂男』(1817)における自動人形オリンピアや、フリッツ・ラング監督の映画『メトロポリス』(1927)における機械人間マリアなど、物語の中に登場する機械の女性は男性を誘惑し破滅へと導く存在として登場する。生身の男性と機械、もしくは人工的な女性との関係について、ミシェル・カルージュは『独身者の機械』において「生殖とは無縁の不毛なエロティシズム」と評した。カルージュはデュシャンの《大ガラス》(1915-23)やカフカの『流刑地にて』(1919)との関連から出発し、「独身者の機械」というキーワードに関わる文学群を取り上げて分析を行ったが、何故彼ら独身者が不毛なエロティシズムを求めたのかについては言及されない。本発表では大戦を経験したドイツの男性たちが陥った身体の問題を通して、彼らが求めた新しい女性像と機械の表象が「独身者の機械」として、当時の芸術作品に現れる過程を明らかにする。マックス・エルンスト、ルドルフ・シュリヒター、フリッツ・ラング、ハンス・ベルメールらの作品を分析の対象とする。

民族的他者と女性──『満洲グラフ』における植民地表象の様式
半田ゆり(東京大学)

写真家の淵上白陽が編集長を務めた『満洲グラフ』は、日本の事実上の植民地であった「満州国」についてのグラフ雑誌である。中国東北部に対する日本の侵略を正当化するプロパガンダであった同誌には、刊行時期を通じ、満州に暮らす様々な民族の姿が掲載された。国策会社であった南満州鉄道株式会社が発行し、主に内地で流通した同誌は、15年戦争期の日本の植民地表象の一例といえる。

本発表は、そこでの民族的他者と女性の表現に一貫する論理に着目し、『満洲グラフ』を植民地表象の観点から考察する。同誌の中で民族的他者はその土着性を繰り返し強調される。一方日本人女性は、他の民族の女性に対して優位に置かれつつ、都市部で職業選択の自由を謳歌することで生活に「華」を添える近代的な女性と、農村部で原始的な生活形態を保持し、良き妻・母として家庭内再生産を担う前近代的な女性の二極に表現のレベルにおいて引き裂かれている。両者の比較検討によって、日本人男性を頂点に置く、民族とジェンダーが絡み合ったヒエラルキーが明らかになる。本発表は植民地における他者の「女性化」の議論の蓄積をふまえ、表象における上記の問題を、植民地表象一般の性質と紐づけて分析する。 

本発表は以下のように議論を展開する。①『満洲グラフ』に一貫して民族的他者に関する記事があることを誌面に即して示す。②同誌における、前近代/近代に分離された女性性の問題を指摘する。③植民地としての満州の地理学的・政治学的条件を検討し、その諸条件と同誌の表象との関連を検討する。

広報委員長:横山太郎
広報委員:柿並良佑、白井史人、利根川由奈、原瑠璃彦、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2018年2月26日 発行