研究ノート

ギャラリストとしてのクリスチャン・ディオールとシュルレアリスム 「クリスチャン・ディオール 夢のクチュリエ」展

小山祐美子


1.

2017年7月5日の開幕からわずか一か月で動員10万人を突破した、パリ・装飾美術館の「クリスチャン・ディオール 夢のクチュリエ展」(2017年7月5日~2018年1月7日)。(図1)(図2)

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(図1)装飾美術館入口(著者撮影)。

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(図2)入館者数10万人を報告したディオールの公式インスタグラムアカウント。同アカウントでは展示準備の動画なども見ることができる。

メゾンの創業70周年を記念して開催されたこの展覧会は、創業者であるクリスチャン・ディオールの幼少期からクチュリエとして成功を収めるまでの流れを俯瞰できるほか、ディオール亡き後にメゾンを受け継いだイヴ・サンローランから、2017年現在ブランドを率いるマリア・グラツィア・キウリまで、歴代6名のアーティスティックディレクターたちのオートクチュールコレクション約300点や膨大な資料などが、装飾美術館の二翼の展示室、合計約3000平方メートルすべてにあますところなく展示されている。(図3)「夢のクチュリエ」という展覧会タイトルのとおり、まさしく夢のような豪華絢爛な展示空間が構成されている。(図4)

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(図3)テーマごとに分けられた展示室では、歴代のアーティスティックディレクターのオートクチュールコレクションが並んでいる。(著者撮影)

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(図4)舞踏会を連想させる展示室では、天井と壁にプロジェクションマッピングが施され、朝から夜に変わって見えるよう照明も変化する。(著者撮影)

多くの来館者は、創業者であるクリスチャン・ディオールがその52年間の人生の中で、自身のブランドを立ち上げクチュリエとして脚光を浴びたのはわずか10年しかなかったということを、この展示で初めて知ることになったのではないだろうか。そう思わせてしまうほどに、彼が10年の間に発表した「バースーツ」(図5)をはじめとしたオートクチュールコレクションは、今日においても服飾史上に確固たる地位を築いている。

そしてその一方で、ディオールがクチュリエとして職を得る前に、ギャラリストとしてパリで生計を立てようとしていたということをこの展覧会では知ることができる。(図6)*1ディオールのその活動は、サルバドール・ダリやアルベルト・ジャコメッティらの作品をパリで広く知らしめる大きなきっかけであった。では、そのギャラリーの活動とはどのようなものだったのか。「ディオール展」の展示内容の一部を振り返りながら、ムッシュ・ディオールの果たした役割のその一端を確認していきたい。

*1 日本では2014年秋に銀座にて開催された展覧会「エスプリ・ディオール―ディオールの世界展」(銀座玉屋ASビル、2014年10月30日~ 2015年1月4日)において、ギャラリストとしての活動の一部が紹介された。

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(図5)「ニュールック」の代名詞ともいえる「バースーツ」は展示室の入口に象徴的に展示されている。(著者撮影)

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(図6)マン・レイによるピエール・コール画廊の展示風景写真の隣に、実際に展示されていた作品が並ぶ。(著者撮影)


2.

ギャラリストとしてのディオールの仕事を確認する前に、彼の半生を振り返ろう。*2

*2 下記を参照。クリスチャン・ディオール著、上田安子・穴山昂子共訳『一流デザイナーになるまで(復刻版)』牧歌舎、2008年のほか、杉野芳子『現代伝記全集(13)ディオール』日本書房、1959年、シャルロット・シンクレア著、和田侑子訳『VOGUE ON クリスチャン・ディオール』ガイアブックス、2013年。

1905年、ノルマンディーはグランヴィルに生まれたディオールは、その裕福な家庭環境において不自由なく暮らしていた。内気で、母が手掛ける庭園の花々を愛する少年だったという。そしてこの庭園の記憶こそがのちに彼の創作の源泉のひとつとなっている。5代目のアーティスティックディレクターであるラフ・シモンズが2013年の春夏コレクションのインスピレーション源に庭園を挙げており、また今回のディオール展においても、庭園についての展示室が用意されていた。(図7)

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(図7)花々をモティーフにした歴代のオートクチュールコレクションが、モネやルドンの花を描いた油彩画と並び展示されている。(著者撮影)

その後一家はパリに移住する。ディオールが15歳になる頃、彼は芸術家の友人たちに恵まれ音楽や美術に傾倒するようになるが、彼がそのように芸術に興味を抱くことを両親は歓迎していなかった。

しかしディオールはますます芸術にのめりこみ、1928年、23歳のときに友人となったジャック・ボンジャン、ピエール・コールら詩人たちと意気投合してギャラリーを開く。このときの資金は彼の父親が出資したが、この活動をよしとしない父親からは決して「ディオール」という家の名前を出さないようにという条件がつけられたため、ギャラリーは「ジャック・ボンジャン画廊」と名付けられた。ディオールは後にこのように述懐している。

私は友達のジャック・ボンジャンと共同でボエディー街のかなり汚い路地の奥に小さい画廊をこしらえた。私たちはピカソ、ブラーク、マチス、デュフィのような尊敬している大画家を中心として、個人的に知って既に私達が高く評価しているクリスチャン・ベラール、サルバドール・ダリ、マックス・ジャコブ、ベルマン兄弟たちの作品を陳列しようという野心を持っていた。その頃、私の店では何の価値もないと考えていたが、現在では値もつけられない位高価になっている絵をどうして手許において置くことが出来なかったのであろう。*3

*3 クリスチャン・ディオール、前掲書、209頁。

1930年に家族の死や実家事業の倒産といったことが立て続けに起き、さらにジャック・ボンジャン画廊も経営が行き詰まり閉鎖することとなる。しかしディオールはピエール・コールによる「ピエール・コール画廊」を手伝うこととなり、1933年まで経営する。

シュルレアリスムやキュビスムなどの意欲的な展覧会を続けたものの赤字続きだったピエール・コール画廊の閉鎖後、自身の病気などの不運に見舞われた時期を経てディオールがファッションの世界に足を踏み入れたのは、1935年、30歳のころだった。そして自身の名を冠したメゾン「クリスチャン・ディオール」がパリでデビューを果たすのは、戦後1946年12月15日、41歳の遅咲きである。前述したように、1957年に52歳でその生涯を終えるまでのわずか10年ほどの短い期間に彼は戦後パリのモードを牽引し続けた。

さて、前述したようにピエール・コール画廊の果たした役割は、シュルレアリスムやそれに関わる若い芸術家たちにとって決して小さなものではなかった。

ここで特筆すべき展覧会のうちのひとつは、ピエール・コール画廊にて1933年6月7日から18日の期間で開催された「シュルレアリスム展 絵画、デッサン、彫刻、オブジェ、コラージュ」*4である。この展示の様子はマン・レイによる記録写真によって今日でもよく知られており(図2)今回のディオール展においても、ダリの≪回顧された女の胸像≫やマン・レイの≪破壊されるべきオブジェ≫といった当時展示されていたオブジェが並んでいる。(図8)この1933年のシュルレアリスム展はこのあとに続くシュルレアリスム国際展の発端となった展覧会であり、シュルレアリストたちにとっても重要な契機であった。

*4 本展覧会については下記に詳しい。Didier Ottinger, Dictionnaire de l'objet surréaliste, Gallimard, 2013.

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(図8)展示室の様子(著者撮影)。

また、誰よりもこのギャラリーに助けられ、成功した画家は当時スペインからパリに出てきたばかりのダリであろう。1929年にパリを訪れジョアン・ミロの紹介によりアンドレ・ブルトンと知り合い、シュルレアリスム運動に参加したダリは、1931年にピエール・コール画廊にてパリで初めての個展を開催、≪記憶の固執≫を発表する。*5同画廊では3回の個展を開くこととなり、その後の飛躍はよく知られている通りである。なお、ジャコメッティもまた、ピエール・コール画廊にて1932年にパリで初めての個展を開催している。

*5 『ダリ展』国立新美術館、京都市美術館、読売新聞社、2016年、41頁。

このようにギャラリストとしてのディオールのキャリアは、経営面では失敗であったとはいえ若き前衛芸術家たちの活動を支える礎となった。そして彼ら芸術家との関わりから得た着想源は、後世のアーティスティックディレクターに引き継がれることとなる。


3.

ファッションと美術の相互作用について語られるときに挙げられる例としては、ダリやレオノール・フィニらとエルザ・スキャパレリの共同制作や、イヴ・サンローランのモンドリアン・ルックがある。殊更シュルレアリスムとファッションについては展覧会も開催され*6、これまでも注目されてきた。それでは、クリスチャン・ディオールとシュルレアリスムはどうであったか。

*6 ニューヨーク州立ファッション工科大学にて開催された「シュルレアリスムとファッション展」(1987年10月30日~1988年1月23日)のほか、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館にて開催された「シュルレアル・シングス―シュルレアリスムとデザイン展」(2007年3月29日~7月22日)など。後者はファッションだけではなく、プロダクトデザインや広告などにも言及されている。

それをこれまでに一番体現したコレクションを発表したのは、4代目のアーティスティックディレクターであるジョン・ガリアーノであったと本展覧会では示唆している*7

*7 ジョン・ガリアーノがシュルレアリスムやスキャパレリを着想源としたという1999年春夏オートクチュールコレクションについて、下記を参照。Christian Dior: Designer of Dreams, London, Thames & Hudson, 2017, p.261.

ガリアーノの作風は必ずしも「エレガント」かつ「フェミニン」と評されてきた*8ディオールというメゾンの方向性に沿ったものではない。2000年春夏コレクションではホームレスから着想源を得たコレクションを発表して物議を醸したほか、世界各国の伝統的な民族衣装にインスピレーションを得た激しい色彩のコレクションを発表するなど、ガリアーノの表現はそれまでのメゾン・ディオールの「エレガント」とは大きく趣を変えたものであった。しかしある意味においてガリアーノのコレクションとは、美術を愛し、前衛芸術の庇護者であったムッシュ・ディオールの、その人の歴史に沿うものでもあったともいえるのではないだろうか。

*8 シャルロット・シンクレア、前掲書、143頁。

また、クリスチャン・ディオールその人が初めて発表したコレクションは、ハーパース・バザー編集長のカーメル・スノウをして、まさしく新しいもの、「ニュールック」と名付けられた。そのデザインは前時代的なコルセットを再度取り込み、ベル・エポックの優美さを戦後の荒廃したパリによみがえらせたものである。しかし彼のコレクションは、ただ古き良きものを提示しただけではない。有機的な線を描くフォルムは新たな時代のドレス像であり、当時生まれたオーガニック・モダニズムのひとつとも位置付けられている。*9そしてそのフォルムは、ピエール・コール画廊にも作品を展示した作家であるハンス・アルプやジョアン・ミロらの作品を思わせるという指摘がある*10ほか、ダリが描いた頭がバラになっている女性像のなめらかな身体のラインにも通じるものがあるといえよう。

*9 成実弘至『20世紀ファッションの文化史―時代をつくった10人―』河出書房新社、2007年11月、161頁。
*10 同書、160頁。

「クリスチャン・ディオール 夢のクチュリエ」展において、来館者はクリスチャン・ディオールという人物の歴史を知り、さらに展示室において様々な着想源を実際に見ることができる。さらに現在までのオートクチュールコレクションを見ることによって、来館者たちは、メゾン・ディオールがただ「エレガント」を標榜してきただけではないということ、新しいファッションを世界に提示しようとしているその野心を垣間見ることができるはずだ。この展覧会によって来館者は、これから重ねられていくメゾンの歴史に対しても新たな視座を得ることができたのではないだろうか。

小山祐美子(国立新美術館)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行