第12回大会報告

パネル6 エンボディード・ポストヒューマニズム

報告:岡村心平

日時:2017年7月2日(日)10:00-12:00
場所:前橋市中央公民館5階503学習室

・ポストヒューマン的身体としてのゾンビ
福田安佐子(日本学術振興会/京都大学)

・身体の拡張と身体改造──ポストヒューマン化はどこまで可能か
大貫菜穂(京都造形芸術大学)

・身体解釈と医療実践の共進化──近代日本の非正統医療における近代以降の身体
田野尻哲郎(東京大学)

【コメンテーター】小泉義之(立命館大学)
【司会】篠木涼(立命館大学)


本パネルは、エンボディード・ポストヒューマニズムをめぐって、3名の発表者がそれぞれ「ゾンビ」「身体改造」「野口整体」から迫るというものである。この3つは人間性中心主義批判や20世紀後半以降の科学技術(制度)の展開による身体性の揺らぎによる現代のポストヒューマン状況を考察するための格好のモチーフであり、また興味をそそるのに十分な「得体の知れなさ」のようなものを有するラインナップだ、というのが当初の所感であった。3名の発表、および質疑での議論は連想を掻き立てるものであった。

第1発表は、福田安佐子氏による「ポストヒューマン的身体としてのゾンビ」である。「ゾンビ・マニフェスト」(サラ・ラウロ他、2013)をはじめとする先行研究が有する思想的文脈などを着実に追いつつ、本発表において分析の中心となっている表象は、2013年公開の『ワールド・ウォーZ』における「群れ」としてのゾンビである。鳥や昆虫の群れ鳥のように、特定のリーダーの統率(中心)無くしてわらわらと移動し続ける本作でのゾンビは、本来は見えない「ウィルス」あるいは「感染」それ自体への脅威を可視化しており、また劇中、主人公もそのようなゾンビの振る舞いを「観察」し、ワクチン作成の糸口を見つけていくという科学的な姿勢が反映されていると福田氏は指摘する。主体性を欠いた群れとしての人間の身体という本作のゾンビと、身体性を欠いたネット空間でわらわらと炎上をもたらす何者かを結びつけることは容易である。司会者の篠木涼氏による「アップデートされた心の裏返しとしての心を欠いた身体」としてのゾンビという描写は示唆的である。

第2発表は、大貫菜穂氏による「身体の拡張と身体改造-ポストヒューマン化はどこまで可能か」である。ピアスやタトゥーのみならず、身体の一部を裂き、あるいは切除するなどの身体改造が1970年代後半のアメリカからいかに波及し、進展してきたのかを、歴史的なバックボーンを詳細した上で論じられている。特に、身体改造として性器切除した男性へのインタビューは興味深く、性(器)への違和をめぐり、その改造方法の多様さ複雑さが示される事例であった。そこには身体改造における「私らしさ」という難敵が鮮やかに示されている。このような「行為の対象としての身体」の分析を通じて、大貫氏による「果たして身体改造はポストヒューマンなのか」という問いへの批判的検討によって指摘された“割り切れなさ”のようなものこそが、現在のポストヒューマン状況をまさに反映していると思えてならない。

第3発表は、田野尻哲郎氏による「身体解釈と医療実践の共進化—近代日本の非正統医療における近代以降の身体」である。本発表は、「野口整体」という伝統医療の実践を「人間を超える」というエンボディード・ポストヒューマン的実践として位置づけ、これがいかに日本に普及していったか、またその過程でいかに変容していったのかというヘルスケア・システムにおける実例としての整体運動に光をあてる。発表レジュメには、次々と生まれては消えていった伝統医療の中でも例外的な生き残りである野口整体について、その考案者である野口晴哉やその後継者たちが、社会システムに対していかなる振る舞いし、今日的な「適応」を見せたのか、またそれを支えた歴史的土壌や社会情勢について詳述されている。活元運動、全生、気や体癖などの野口整体を特徴づけるタームは、地域コミュニティとの交渉によって、段階的に生み出されたものであるが、実践というエンボディーメントに伴うリスクの解消という逃れられない傾向において、ヘルスケア・システムとして野口整体がいかなる方略を取ったのか、その変容過程が分析されている。

全体討論では、本発表が表象や実践について中心的に取り上げ、かつ個々のテーマの独自色のためか、個別の発表者への質問が目立っていた。それでも、コメンテーターの小泉義之氏が3名の発表者への「人間であることのどこがそんなに嫌なのか?」「この身体のどこがそんなに気に入らないのか?」という投げかけには、本パネルのテーマ「エンボディード・ポストヒューマニズム」への迫り難さが集約されているように思われる。

ゾンビ、身体改造、伝統医療という実践という「得体の知れなさ」を有するモチーフを考察の対象とすることで、正常的、標準的規範的ではないところから議論を始めることができるかもしれない。一方で、フロアから「ポストヒューマニズム、つまり人間を超えたいという動き自体、ヒューマニズムのうちにあったのでは?」という指摘もあった。人間を越えようとするということ自体が、人間の欲望にとどまってしまうのか。何がポストヒューマンに向かわせるのか。今後の研究のさらなる展開に期待したい。

岡村心平(関西大学)


パネル概要

20世紀後半の科学技術の展開によって、人間とは何か、その境界が変容しつつある。情報科学技術から生じた主体性をめぐる想像力を、キャサリン・ヘイルズ(1999)はポストヒューマニズムと呼び批判している。人間の主体が、コンピュータ・ネットワーク上に記録・流通・保存されうる情報として表象され、身体性の次元が等閑視されてしまっていることを問題視したのである。この批判でヘイルズが強調したのが、「エンボディメント(身体をもつこと/身体化)」概念の重要性だった。

しかし、このような情報科学技術にむすびつくポストヒューマニズムとは別に、同じく20世紀後半からの生物学や医学など、そもそも具体的な「身体をもつ」主体に関わる科学や技術によって生じた想像力や実践としてのポストヒューマニズムがある。たとえば、現在のポストヒューマン状況をマッピングしたロージ・ブライドッティ(2013)は、この生物学的なポストヒューマニズムを現代の先進資本主義との絡み合いのなかで捉える理論を構想している。

現代のポストヒューマン状況とは、脱身体化を進める情報学的ポストヒューマニズムと身体性そのものの変容を進める生物学的ポストヒューマニズムという一見対立する動向が同時に進行している事態にほかならない。本パネルは、後者の、身体化されたポストヒューマニズムの実践と表象に焦点を当て、このヒューマンをめぐる言説と身体の変容を明らかにしていきたい。

ポストヒューマン的身体としてのゾンビ
福田安佐子(日本学術振興会/京都大学)

現代のポストヒューマン状況において想定されている身体とはどのようなものか。この問いに答えるため、本発表では映画におけるゾンビ表象に注目する。先行研究においては、しばしばゾンビ映画の製作数が2002年以降に急激に増加した背景には、現代社会におけるポストヒューマン状況があるとされてきた。例えば、「ゾンビ・マニフェスト」(サラ・ラウロ他、2013)は、ハラウェイの「サイボーグ・マニフェスト」(1986)を念頭におきつつも、アンドロイドやサイボーグ以上に、ゾンビはポストヒューマン状況における身体と重なり合うものだという。すなわち、ラウロによれば、ゾンビの表象は、1930年を前後して登場以来、常に生/死、人間/非人間の区別の曖昧さを表した存在であった。さらに現代のゾンビは、例えば医療の進展によるポストヒューマン的状況において、すでに変容を強いられている我々の身体の比喩としても理解されうる。

本発表ではこのようなラウロらの、ゾンビをポストヒューマン状況における身体の具体的表象とする視座を踏まえ、世紀の変わり目を前後して大きく変化したゾンビ映画のうち、とりわけ「個体なき群れとしてのゾンビ」という形象に着目する。この形象を近年の議論の枠組みに位置づけることで、ポストヒューマン的身体としての表象を見いだすことを試みる。

身体の拡張と身体改造─ポストヒューマン化はどこまで可能か
大貫菜穂(京都造形芸術大学)

1970年代後半から80年代、アメリカなどの西欧諸国で身体改造(body modification)が活性化し始めた。一部の愛好家間の秘められた行為であったタトゥー、ボディピアス、スカリフィケーション、インプラントなどが、音楽界での流行やサブカルチャーの隆盛に後押しされ、一般へ流布するようになったのだ。

他方、積極的に身体改造へ与する者らが、90年前後より科学技術を駆使した技術の向上と、身体に手を加えることへの新たな思想的枠組の形成を模索し、2000年頃にはサイボーグ化やポストヒューマン、トランスヒューマンの実践を冠しはじめる。身体を自由に改変可能なマテリアルとし、精神・身体・世界をシームレスにすることが目的化されたのである。

本発表では、近年のポストヒューマン思想の文脈にそれら実践を位置づけ、こうした身体改造の背景にある身体観を批判的に検討する。たとえば、現代の身体改造は、外部への身体の拡張と脱身体化を指向しているように思われるが、それはいかなるものか。身体の拡張、とりわけサイボーグ化は、身体の可塑性を更新し世界へ押し広げることが可能なのか。身体の改造で、存在論的にも認識論的にも自己や社会構造から逃れ得るのか。身体改造の実践を、身体≒自己と世界の関係性を問う行為として位置づけ、それがどのようにヒューマニティの臨界を徴づけているのかを考察するのが本発表の目的である。

身体解釈と医療実践の共進化─近代日本の非正統医療における近代以降の身体
田野尻哲郎(東京大学)

私は、エンボディード・ポストヒューマニズムとしての野口整体を分析する。これは以下の二点で、ポストヒューマニズムの深化に資する。

第一にこれは、科学史・医学史の観点からポストヒューマニズムの関係を問い直す思考だ。1980年代における情報科学の急速な進展への対応として出現したポストヒューマニズムでは、情報科学の概念装置がサイバネティクスや医療技術の強化的用法への解析に使用されてきた。だが医療目的である「健康」は規範概念であり「一時的に正常と定義されている規範をはみ出る可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範/を設ける可能性である」(カンギレム『正常と病理』法政大学出版局,1987:175-176)。つまり規範と存在を巡る問題として立ち現れる医療分野におけるポストヒューマニズムの解析には、情報科学による既存のそれとは異なる概念装置が必要となる。

第二にこれは、近代日本伝統/民間医療の実践と生命倫理の観点からポストヒューマニズムを問い直す作業だ。順機能/逆機能(マートン『社会理論と社会構造』みすず書房,1961:181-189)として、近代日本伝統/民間医療は標準医療と併存してきた。それは反/非近代科学・医療として、標準医療より明確にポストヒューマニズムを主題化する。特に現代日本文化・宗教への影響力を評価される野口整体(1927-)で、その傾向は強い。その「活元運動」概念は、受動的/近代的身体の能動的/ポストモダン的身体への解釈変更の駆動力として、野口整体の史的変容を主導した。

本発表では、近代日本に身体化/具体化したポストヒューマニズムを野口整体により滴定することで、医療モデルのポストヒューマニズムが有する概念装置とその生成過程を可視化する。

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行