第12回大会報告

関連展示 島地保武《震える影を床に落とす》《正午》

報告:田口かおり

島地保武 SHIMAJI Yasutake
《震える影を床に落とす》2016年
Dropping the trembling shadow on the floor
シンバル

島地保武 SHIMAJI Yasutake
《正午》2017年
Noon
映像(118 min. )、ビデオカメラ、ウレタンマット

協力:資生堂ギャラリー


2017年7月1日から2日にかけて行われた表象文化論学会期間中、島地保武《震える影を床に落とす》(2016年)と《正午》(2017年)が、アーツ前橋において公開されていた。

地下会場に入ると、目の前には大きなウレタン製の白いマットが広がる。作品《正午》である。分厚く柔らかな白い布で覆われた低反発素材の塊の上に、ダンサー島地保武の絶え間ない舞踏がプロジェクターにより映しだされている。島地のダンスは俯瞰の定点から映像ディレクター山城大督によって記録されている。マットの前に立つ私たちの足元では、力強く深い呼吸を繰り返しながら踊る島地の頭部と肩、腕だけが時に素早く、時にゆっくりと行き来する。

上に乗って歩いてみてください、と、会場係の方に促されて靴を脱ぎマットの上に踏み出すと、材に足の指先が深く沈む。島地に近づくたび、体重で歪むマットは無数の皺を生み、島地の輪郭を歪ませることになる。中央に行き着く少し手前で、前方に設置されたビデオカメラが私たちの姿を捉え、同じマットの上に映し出す。不意に、舞台上の登場人物が複数になるのだ。

記録され再生される島地と同様、ビデオカメラは上空からの視点で私たちを捉えているため、プロジェクターには頭部が映る。多方向からの眼差しが混ざり合う場で、足首が沈むウレタンの質感と、自身の頭頂を見守る奇妙な体験が相まって、船酔いのような浮遊感が湧く。そこにはもちろん、影の影響もある。私たちの身体が落とす影、ビデオカメラが映しだす影、記録に刻まれた島地自身の影、記録を採取する山城の影、皺の影。私たちが歩いた軌跡はマットを泡立たせ、影は変形して更地になり、また隆起する。

右方に目をむけると、天井から紐で吊るされた一枚のシンバルが、空調の風を受け微かに揺れている。《震える影を床に落とす》である。傍らには、供物のように、バイオリンの弓と、黄緑色の樹脂の球がついたおもちゃの太鼓の撥、大きな撥の三本が壁に立てかけられている。撥を手にして作品を叩くと、シンバルがそれぞれに異なる音を立て、展示空間内には長らく残響がある仕組みである。

《震える影を床に落とす》と《正午》の中では、「影」「正午」「震え」というキーワード群が混交する内に切り結ばれている。《震える影を床に落とす》のシンバルの円形と垂直の紐はどこか日時計を思わせる形状をしており、時折鑑賞者がおそるおそる鳴らす音は、何かしらの定刻を──あるいは「正午」を──告げるしるしのように響く。対する《正午》は、私たちと島地の間で偶発的に生まれる影のポリフォニーが起こす〈衣擦れ〉によって、舞台もろとも演者全員の姿形が「震え」、変形していく。

本展覧会の半年前にあたる1月、島地は東京の吉祥寺シアターにて《短い影》と題されたダンスを発表していた。予見が困難な動きの連続と生物の舌のようにぬめる手足の動きが印象的な作品で、彼の師である舞踏家ウィリアム・フォーサイスが観客を魅了した、身体の重心がずれ身体の軸が崩れる瞬間から始まる作品を彷彿とさせる。また、足下に落ちる影が伸び縮みし、沈黙の間を縫い、空間を浸していく様子は、今回の展示《正午》に連結する。いわば《短い影》《正午》は対であり、一つの物語として機能しうる作品のように映る。舞台名《短い影》は、ヴァルター・ベンヤミンのエピグラフによる。

正午頃になると、影たちはわずかに、事物の足元にへばりついた
黒く鋭い縁取りとなっていて、音もなく不意に、それぞれの巣穴のなかへ、
それぞれの秘密のなかへ引き篭もる手筈を整えている*1

*1 ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健次郎編訳、久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション(3) 記憶への旅』ちくま学芸文庫、一九九五年、エピグラフより抜粋

注目すべきは、ダンサーの「影」が同じく交錯するこの二作品には、わずかな時間のずれがある点だろう。つまり、《短い影》は未だその名の通り小さな影が残る「正午頃」であり、太陽が南に昇りすべてのものの影が消え事物の差異が眩さの中に消失する「大いなる正午」には至っていないと仮定される。対する《正午》では、頭上を通る太陽がもっとも重要な作品の「眼」となって、私たちの影と肉体を狩る。前奏としての《短い影》を経て、島地作品は《正午》へ向かっていったと言えるだろう。実際、《正午》に記録される島地の映像は、時に色調が変化し、ほぼホワイトアウトのような状態になる場面が幾度か訪れる。さらには、その白濁した景色のなかでいつのまにか島地の映像がフレームアウトし、鑑賞者のみが作品のなかに取り残されてしまう事態さえ発生する。

その不穏な不安の中で眼を上げると、目前には《震える影を床に落とす》のシンバルがある。床に落ちる微かな影が鈍い金色を放って円から上弦、下弦へと満ち欠けをする様子が見て取れる。

島地の影と踊りはぐれながら、文字通り「空間と時間からなる奇妙な織物*2」であるウレタンマットの上に立つ私たちは、二作品が炙りだす昼夜に晒され、同一の空間において物理的に間接的に相互作用しあう、複数の時間軸を目撃する。それは、私たちと島地の、島地と山城の、記録と進行する現在の、影と影の交差である。

「しかし、〔その中心で〕私達が打ち震えている間中、一つの問いが心を占め続ける。つまり、私達は時間なのか?*3

*2 ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健次郎編訳、久保哲司訳「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション(1)』ちくま学芸文庫、一九九五年、五九二頁。
*3 ヴァルター・ベンヤミン著、道籏泰三訳「若さの形而上学」『来たるべき哲学のプログラム』晶文社、一九九二年、二七頁。

田口かおり(東海大学)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行