単著

中村秀之

特攻隊映画の系譜学 敗戦日本の哀悼劇 (戦争の経験を問う)

岩波書店
2017年3月

本書は、戦時下から現代にいたるまでの特攻隊映画を通時的に分析した本格的な映画研究の書物である。これまで特攻隊を描いた作品についての研究は隣接領域に存在してはいるものの、本書にも記されているように、ほとんどが映画作品の本文(テクスト)より、その周辺にある歴史的事実を論じる傾向が強かった。それに対して筆者は、むしろフィクションとしての映画テクスト、すなわち「映像と音響によって構成された映画テクストに見出される表象の事実」にこそ最大の関心を向けている。とはいえ、史実を等閑視しているわけではまったくない。実際、精密な歴史考証が行われ、映画テクストの生成過程や送り手の実践から同時代の受容まで、幅広い史料から史実と当事者の感性が掬い上げられている。だが、このような作業は本書にとって映画作品の独自性を捉えるために不可欠なアプローチなのであり、この書物をスリリングなものにしているのは、前作『敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画』(岩波書店、2014年)でもいかんなく発揮されていた映画の身体やその身ぶりに対する精妙な映画テクストの分析である。

本書では分析枠組みとしてフロイトの精神分析の理論──喪(Trauer)とメランコリー(Melancholie)、事後性(Nachträglichkeit)など──が援用されるが、これも対象を一元的に説明するためではなく、対象を解釈するための方法として適宜導入され、実際の分析は映画学による形式やショット分析に依拠しながら、具体的にテクストの作用が論じられていく。そのための分析軸として重要なのが〈昇天〉と〈蕩尽〉のイメージである。「悠久の大義」を視覚化し、「生きている神」が飛行によって空に消えてゆくのを地上の人々が見送る儀礼的な場としての〈昇天〉、そして続々と出撃準備を整える青年たちや彼らを送り出そうと増産に組み込まれる女性たちの(豊かな生産ではなく)未来のない消尽の場としての〈蕩尽〉、戦後の特攻隊映画では、それらの複合的なイメージが基本的なパターンとなり、時代ごとに変奏され、意味を変質させながら繰り返し表象されてきた。

筆者の卓越な映画テクストの分析は、たとえば敗戦直前に撮られ奇跡的に現存する映画『最後の帰郷』(1945)で味わうことができる。筆者は、隊員と肉親の悲哀を表現するこの感動作が、観る者を同一化させるテクスト構造を、冷静なまなざしで精緻に解きほぐしながら、いかにラストシーンの隊員の身ぶりにメランコリーが作動しているのかを浮かび上がらせる(第2章)。あるいは、戦後の特攻隊映画の範例となった『雲ながるる果てに』(1953)のラストシーンで、映画技法が兵士の肉体を媒介に〈蕩尽〉のテーマをいかに批判的に暴露させているか、それが声の情緒的な機能によって〈昇天〉の儀礼にどのように回収されてしまっているのかを、映画テクストに即して実証的に論じている(第3章)。

それ以降も〈昇天〉と〈蕩尽〉の範例からの偏差によって数々のフィルムが検討されていくが、『雲ながるる果てに』で構築された定型パターンを「展開」させる『人間魚雷回天』(1955)と、「活劇」化する『人間魚雷出撃す』(1956)の間に、筆者は決定的な切断を見出している。それは何も後者が日活の「ドライ」なスターを配したアクション映画だからではない。特攻を「過去」として語る形式の変遷や、今ここにある危機からの救出を求める脱政治化されたテクストが現出しているからである(第4章)。そして、第5章では、特攻隊映画のジャンル的特徴を確認した上で60〜70年代における撮影所時代の映画、終章ではポストモダンにおける〈記憶〉としての特攻隊映画が論じられる。空前の大ヒットを記録した『永遠の0』において〈蕩尽〉に取り憑かれてしまった主人公が、なぜ喪に失敗し、〈昇天〉の儀礼で終わることがなかったのかは、岡田准一の身体に露呈されたものを実際に映画で確認しながら本書をじっくりと読んでいただきたい。沈黙する映画テクストから見過ごされてきた〈声〉を次々と立ち上がらせる筆者の分析の卓抜さと洞察力に惹き込まれるだろう。

(北村匡平)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行