PRE・face

表現することと思考すること

住友文彦

台北の松山空港で搭乗口に乗る前の時間を利用して、私は2か月ほど前に前橋で行われた第12回大会を振り返りつつ、そのあとの日々で考えたことを思い出そうとしている。先月、8月は例年より涼しいドイツでドクメンタ等を巡り、そしてつい先ほどまでは南国の濃密な湿度に身を浸していた。じとっとした空気に全身の毛穴が開き、騒々しい路地を歩くうちに頭が弛緩していくような感覚はとても気持ちいい。本務地の東京藝術大学の大学院生を連れて、いくつかの美術館やアートスペース、それから平和公園やニニ八記念館を訪問し、美術や音楽と理論を横断的に学ぶ国立台北芸術大学の学生や教員と語り合い、飲んで食べて、数日を過ごした。

台湾では、歴史や社会問題と関わって作品をつくる若い世代のアーティストが目に付く。滞在中にも日本の植民地時代やその後のアメリカとの関係、あるいは環境問題やLGBTのことを扱う作品をあちこちで見た。しかも興味深いのは、問題を告発するような態度ではなく、アーティストも同じ社会の中にいるゆえの葛藤や複雑に絡み合った背景が描かれ、目線が低いことである。それは政治でもジャーナリズムでもない、個人の感覚をもとにした芸術表現固有のコミュニケーション方法とも言える。芸術の中で行われている実験が社会と切り離されず、その周りの社会と同じ地平で連続しているからこそ、真剣に社会問題を若いアーティストが問うのだろう。その感覚には2014年のひまわり運動もきっと影響をあたえているだろう。とくに台湾では自らのアイデンティティの問題と結びつけながら作品を制作するアーティストが少なくない。欧米で1960-70年代に多く見られたアイデンティティと結びつく作品とは異なり、難民問題や経済危機などのグローバル化を背景に再考されている、この新しいアイデンティティの主題は近年世界的に大きな注目を集めている動向と響き合うものだ。しかし、むしろ日本にはそうしたタイプのアーティストが少ないのが特徴である。いったい、それはなぜだろうか。

ひとつの理由には、芸術の実践とアカデミズムの乖離があるのではないかと思っている。表現することと思考することが結びつかないと、この複雑な問題に分け入ることができないし、自分の感性に鋭敏にならないと問題を見過ごす。そして、絵を描くことや身体を動かすことは思考を展開させる。

そして、今回、大学ではない場所で学会をおこなったこともあり、表象文化論学会にはきっとその溝を埋める可能性が期待されているはずだと思った。それはまだはっきりと見えない姿かもしれないが、その越境を楽しみ、語り合う風景を2日間の間に何度か目撃した。私が現場の仕事を心から楽しいと思えるのは、すべてが有機的に連続していることだ。作品を見ることも、本を読むことも、人と会うことも、予算や名簿をつくることも、商店街の人と呑むことも、役所と交渉することも、ドクメンタのテーマも。そして、その連続性は明確に言語化できないまま、頭に沈殿し、体の中に仕舞い込まれる。一方で研究はその連続性をどこかで断ち切り、焦点を絞ることで鮮明に物事を照らすことができる。そして、言葉にすることで他人と共有できるものにする。アーティストのリサーチとは、おそらく有機的な生の連続性を断ち切らないままに、対象を鮮明に照らし出そうとすることに近い。だから、それは先行研究など持たないし、言語を使わないときもある。世界のあちこちに存在したまま見えなかったものが、だれかの感性に触れ、かたちを得て感じ取れるようになる。そのかたちが見えるまでのじりじり、わくわくする時間には、誰かと一緒に生きる現実感だけがある。明確に名付けられ秩序を持っていた世界が、相貌を変えて現れることもある。

私が台湾で見た作品のいくつかは、かつての秩序によって分断されていたもの同士の連続性を回復させる実践だったと思う。「美術」と工芸、生態系、宗教、そして生。その分断を繊細に嗅ぎ取る感覚と深く正確に思考する作業をもっと見たい。そのために、これからはなるべく意識的にアーティスティック・リサーチという言葉を使っていこうと思っている。とくに真新しい概念でもないが、完成した作品ではなく、サインが記される前にキャンバスを動き回る線、ブックマークされた異なるウェブサイトの連なり、会話が呼び覚ました過去の記憶などが、いくつもの交錯する連続線を持った状態に注目してみたい。展覧会とか、キュレーションとか、作品とか、そんな形式からも少し自由になれるかもしれない。

住友文彦

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年11月11日 発行