編著/共著

石橋正孝、倉方健作(共著)

あらゆる文士は娼婦である 19世紀フランスの出版人と作家たち

白水社
2016年10月
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関係者の「欲望」に優先順位を付け、その時点で課せられた現実的制約の範囲内でできることとできないことを分別し、各位の「分け前」を極力増やすために、それと引き換えに彼らが許容できる「犠牲」や「負担」の程度と形態を交渉し、現実的な「落としどころ」を探ること。社会生活を営む者であれば、誰しも日常的に行っていることではある。では、出版を通した表現全般において、それをとりわけ担う役回りになっているのは誰か。言うまでもなく、出版者にほかならない。

問題は、主要関係者である「著者」の「欲望」が、経済的次元のそれであれ、象徴的次元のそれであれ、しばしば度外れであること、にもかかわらず、それを妨げる現実的制約が、19世紀から20世紀にかけて強まっていく一方であったこと、そして、「著者」にその肥大した「欲望」の充足を要求できる権力を付与していた当の者たち──匿名の消費者の群れとしての大衆──が、次第にその権力を自ら行使するようになり、「著者」との間にますます軋轢を生じるようになったことだ。出版の担い手たちは、市場経済という現実の制約が「第二の著者」と化していく中で、本来の「著者」との間にあって、両者を少なからず兼ねた存在──どちらに軸足を置くかによって、その性質は多様に分かれたとはいえ──になっていく。

ヴィクトル・ユゴーという「神」が英仏海峡の小島に流謫を託ち始めた時をもって、本書が幕を開ける所以がここにある。ユゴーこそ、19世紀フランスの文学界で最大の支持を大衆から寄せられ、著者としての権勢を極めた存在だった。この場合の権力とは、作中においてであれ、その受容においてであれ、まさしく神のごとく自身でルールを制定し、それに従わせることができるという事態を指す。亡命先で完成された『レ・ミゼラブル』の大成功は、しかし、「著者」の権勢の絶頂であると同時に、その凋落の始まりでもあった。石橋が担当した本書の前半は、ベルギーの新興出版社ラクロワ・ヴェルブックホーヴェン書店がこの「世紀の書」のお陰で稼ぎ出した莫大な経済的=象徴的利益がその後の文壇を動かし、最終的にゾラという流行作家を生み出すに至るまでの過程をたどるが、それは、文学市場の成立と著者の経済的自立の過程が、その実、ユゴーが端的に金銭の形で得た読者大衆の力に「著者」が屈していく過程に等しかった事実を赤裸々に物語る。実際、あらゆる分野で進展した叢書化というジャンル分けは、「著者」がそのルール制定の権力を、部分的にせよ放棄しなければありえず、この出版形態が浸透し、常態化していったのがまさしくこの時期なのだ。

ならば、こうした派手な金銭の動きから取り残された詩壇はどうなっていたのか。詩人たちは「著者」としての権力を自前で確保していたのである。自費出版によって市場経済から自立した詩の純粋性を守った、と言えば聞こえはいいが、当然にも現実はそのような美しいものではなく、文学史に残る流派としてのパルナシアンの裏に、ルメールという一人のしたたかな商人がいたことを、パルナシアンに拮抗しうる流派に象徴派を育て損ねたヴァニエとの対照において、本書の後半を執筆した倉方健作が軽妙な筆遣いで語ってくれる。

(石橋正孝)

広報委員長:横山太郎
広報委員:江口正登、柿並良佑、利根川由奈、増田展大
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2017年3月29日 発行