トピックス 3

Humboldt-Kolleg 2016 ー Bilder als Denkmittel und Kulturform
思考形態と文化形象としてのイメージ

2016年4月9日・10日 東京大学駒場キャンパス 21 KOMCEE East

主催:アレクサンダー・フォン・フンボルト財団
共催:日本学術振興会科学研究費助成事業 基盤研究(B)「ヴァールブルク美学・文化科学の可能性―批判的継承から新たな創造へ」(研究代表者・伊藤博明)、東京大学ドイツ・ヨーロッパ研究センター(DESK)、東京大学大学院 総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)、東京大学大学院 総合文化研究科 超域文化科学専攻 表象文化論研究室

  • 開会挨拶:田中純(東京大学)
  • 来賓挨拶:ウルズラ・トイカ(ドイツ学術交流会)、ユディト・シルト(アレクサンダー・フォン・フンボルト財団)

セッション1(英語):アビ・ヴァールブルクのイメージ学とムネモシュネ・アトラス

  • 司会:田中純(東京大学)、コメンテータ:ホルスト・ブレーデカンプ(ベルリン・フンボルト大学)
  • 伊藤博明(埼玉大学)- Perseus absens in the 1929 Version of Der Bilderatlas Mnemosyne
  • 加藤哲弘(関西学院大学)- Warburg’s Journey to New Mexico and his Mnemosyne Atlas
  • ジョヴァンナ・タージャ(ミュンヘン大学)- Unconscious Memory and Aby Warburg’s Mnemosyne

セッション2(日本語):イメージ研究の変遷:クンストカマーから技術的イメージまで  

  • 司会:竹峰義和(東京大学)
  • 桑原聡(新潟大学)「ドイツ・ロマン派の時代におけるKunstkammer概念の受容―ノヴァーリスとジャン・パウルの場合-」
  • 濱中春(法政大学)「視覚化と認識のあいだ―リヒテンベルク図形と科学の図像研究の射程」
  • 粂川麻里生(慶應義塾大学)「モナドロジー的普遍学としてのゲーテ形態学」
  • 原研二(大妻女子大学)「翻訳者から見たBildwissenschaft」

アレクサンダー・フォン・フンボルト財団の研究者支援プログラムに関するお知らせ  

ユディト・シルト(アレクサンダー・フォン・フンボルト財団)

基調講演(英語・ドイツ語):思考手段と文化形象としてのイメージ

  • 司会:坂本泰宏(マックス・プランク経験美学研究所)
  • カール・クラウスベルク(元・リューネブルク大学)- The Nature of Memory and Image-Parasites: A Zoo-Visit with Warburg
  • 稲賀繁美(国際日本文化研究センター)- Passage, Rahmenlosigkeit, Blotting Effect: Reflections on the « Japanese-ness » in Art
  • ホルスト・ブレーデカンプ(ベルリン・フンボルト大学)- Zur Symbiose von Bild und Natur. Überlegungen zum herrschenden Neomanierismus

セッション3(英語・ドイツ語):イメージ知 ── 分野横断的かつ超文化的な俯瞰

【パネル1】技術的イメージとメディア美学

  • ビルギット・シュナイダー(ポツダム大学)- Images as Environments. Rendering visible the Climate
  • 門林岳史(関西大学)- The Post-Media Condition in the Wake of Japan’s 3.11 Disaster

【パネル2】ディジタルメディアのヴィジュアルストラテジー: 創造者と観察者の技法

  • 稲見昌彦(東京大学)- Beyond Human Limits
  • マルガレーテ・パチケ(チューリヒ工科大学)“There’s nothing new under the sun”– An Art Historical Approach to Graphical User Interfaces

【パネル3】経験イメージ学・神経系イメージ学

  • アントニア・ラインデル(ベルリン・フンボルト大学)- Cultural differences in art perception: An experiment
  • 坂本泰宏(マックス・プランク経験美学研究所)- Before Bildakt: The notion of passive / active motion between image and linguistic imagery

【パネル4】視覚文化とイメージ知覚

  • 石岡良治(青山学院大学)The bodies of ANIME imaging
  • フェリックス・イェーガー(フィレンツェ・ドイツ美術史研究所)- The Psychology of Deformation. The Secrets of Power and the Melancholic Eye in the 16th Century

【パネル5】図像行為と身体的イメージ分析

  • 橋本一径(早稲田大学)- An unfaithful trace: history of “life-size” photography
  • イェルグ・フィンガーフート(ベルリン・フンボルト大学)- Pictures and the Embodied Mind

http://bildwissenschaft.jp


Bildwissenschaft(以下イメージ学と呼ぶ)研究の中心地のひとつであるベルリンでは、各所で美術やイメージ研究に与する講演会や学術イベントが毎晩のように開催され、白熱する議論は遅くまで続く。そこで語られる言葉の一つひとつは濃密で注意深く、と思いきや暴走ありの刺激に満ち溢れたものである。しかし、それでも尚、イメージの碩学者たちが繰り広げる対話から、知の乾きを覚えるほど、何か大事なものが丸ごと忘れ去られたような、それゆえの居心地悪さを感じることがある。

それはドイツ語圏偏重であるというイメージ学批判にも通じるものであるが、イメージ学において〈Bild〉が「技術」「超文化性」「知覚」という、かつての西洋美術史が必ずしも専門としてこなかった課題に差し掛かるや否や、「見ること」の優位性を標榜するはずのイメージ学が、ドイツ語特有のレトリックへの依存に陥るのみならず、西洋的な眼で見たイメージ理解・知覚・解釈の仕方の殻に引き籠もってしまいがちであることに起因する。その結果として、言語の普遍性から自由であるべきイメージが、逆に言語の足枷に拘束されるという事態を引き起こしている。

イメージ学が内抱するこれらの自己矛盾を指摘することはさほど難しいことではないが、状況を変えるための一石を投じることは決して簡単なことではない。なぜなら、この学問が抱える根本的な問題は、アナロジカルな文化比較や知覚の経験科学を付け焼き刃に参照するかたちで炙り出すことは困難であり、知覚論とその背後にある多文化における図像に関わる思想と哲学を互いに突き合わせることによってはじめて顕在化するものであるからである。

ロンドンのヴァールブルク研究所ではアビ・ヴァールブルクの言葉〈Bilderfahrzeuge〉に因んで、イメージとは乗り物のように多様な文化を流離うものであると考え、流離いの中でも保ち続けられるイメージの持つ超文化的な性質を探求するプロジェクトが進められているが、イメージ学もまた限定された世界から飛び出し、多様なイメージ文化とそれを支える哲学や知覚のあり方に直に触れるべき段階に達している。少なくともイメージ学が学問としての萌芽期を終え、ドイツ語圏では学科としての教育体制も整い、緩やかに次世代へと受け継がれ始めた現在、これまで西欧の眼に偏重してきたイメージ学が世界を広げ、まだ見ぬ「自由なイメージたち」をありのままに感じることこそ、イメージ学に必要なことであろう。

このような、西欧のイメージ学者たちには挑戦的であると思われてしまいそうな動機は別としても、『表象10』冒頭を飾った岡田温司、田中純の両氏による対談に象徴されるように、日本でもまた新たなイメージ研究の模索が進む今こそ、4つの世代にわたるドイツ語圏のイメージ学研究者たちを一斉に日本へと招き、世代も文化も超えて腰を据えた議論をする場を設けることは、イメージ学をただ紹介するということだけに止まらず、日本で試みられている多様なイメージ研究に新たなヒントを見出す機会を与えてくれるだろうという期待があった。

また、多言語にわたる最先端のイメージや思想・哲学研究を翻訳書として絶えず解釈・紹介してきた言語・文芸学者諸氏や出版社・編集者たちの尽力によって伝達、そしてその過程で新たに獲得された多彩なイメージ知の蓄積は、日本の人文学界を世界的にも希少な、言語文化圏を超えた「思考の反射と展開」が発生する場へと育て上げたが、このようなアカデミックな魅力を積極的に諸外国の研究者や海外学術機構関係者たちに伝えていくこともまた、狙いのひとつであった。リヒテンベルク図形を扱ったErkenntnis vom Bild(Hamanaka, 2015)やイメージと音の境界を論じたBildwelten des Wissens, Band 10.2(Sakamoto et al, 2014)など、ここ数年の日本人若手研究者によるイメージ学研究に対する直接的貢献もまた、今回の企画の実現を後押しした。

本会議の主な資金源「フンボルト・コレーク」とは、ドイツ政府系の学術機構であるアレクサンダー・フォン・フンボルト財団が受賞者・元フェローに提供する学術会議・ミーティング開催資金援助プログラムである。本イベントの原案は2010年に同財団よりジーボルト賞を受賞した田中純(東京大学)と同財団の元フェローである坂本泰宏(マックス・プランク経験美学研究所)によって草起され、竹峰義和(東京大学)とフェリックス・イェーガー(フィレンツェ・ドイツ美術史研究所)の協力を得て開催された。

本シンポジウムの詳細報告は会議ウェブサイトで公開している要綱や現在準備を進めている出版物の刊行にて代えさせて頂きたいが、特筆すべきは『古代憧憬と機会信仰』(1996)、『モナドの窓』(2010)、『ダーウィンの珊瑚』(2010)など多くの翻訳書でも知られる美術・イメージ史学者のホルスト・ブレーデカンプ、そして神経系イメージ学の提唱者であり、邦訳『ウィーン創世記』(2000)で知られるカール・クラウスベルクの両名が一挙初来日を果たしたことであろう。両氏に加え日本側から稲賀繁美(国際日本文化研究センター)を加えた三者による基調講演とポディウムディスカッションには、英・独語開催にもかかわらず約140名の聴衆が日本全国から集まり大盛況のなか開催された。

基調講演・ポディウムディスカッション(坂本泰宏(司会)、カール・クラウスベルク、稲賀繁美、ホルスト・ブレーデカンプ)

基調講演・ポディウムディスカッション(坂本泰宏(司会)、カール・クラウスベルク、稲賀繁美、ホルスト・ブレーデカンプ)

稲賀による、〈Japaneseness〉という概念をイメージの分解から導くとともに西洋のイメージ概念の層へと織り込んでいく見事な議論、そして稲見昌彦(東京大学)による「遊び」を持ち合わせたイメージ技術の身体への拡張がなす知覚世界の転換と知覚作法そのものの拡張が予感させる、イメージ実践と〈Verkörperungsphilosophie〉(身体性哲学)の親和性などからは、日本という土壌で生まれた多様なイメージ群が、これまでのイメージ学が到達し得なかった新たな思考形態を形象する源泉であるとともに、それ自身がイメージ学を構成する大事な要素となりうることを再認識させるものであった。また、ドイツと日本の若手世代が対になりパネルを展開した2日目、セッション3の各パネルは、日本とヨーロッパのイメージ研究の将来を見据え、長期的な繋がりを育むという重要な役割をもつものであったことも付け加えておきたい。

セッション1(伊藤博昭、加藤哲弘、ジョヴァンナ・タージャ、田中純(司会))

セッション1(伊藤博昭、加藤哲弘、ジョヴァンナ・タージャ、田中純(司会))

本会議で初来日を果たしたホルスト・ブレーデカンプは講演の冒頭で、「日本には10年早く来るべきだったと」語った。同氏は西欧から見てトルコよりも東に行ったことがないほどこれまで東方に縁がなかったのであるが、これは日本の聴衆へ向けたリップサービスというわけではなく、おそらく本心からのものであったであろうということを補足しておきたい。本会議に先立ち、講演会が開催された京都から東京に至る旅路の中で幾つかの日本建築・美術、都市表象に接したブレーデカンプ氏はその形式の中に西洋美術と同時代的に発生した要素を見出し、それこそが彼の論じる〈Bildakt〉──像行為、あるいは図像行為論──が導くいくつかの仮説の論拠になりうるものである可能性を持っていることを──もちろん本来の根源を無視して表層の関係性を論じることは危険であることを付した上ではあるが──何度か口にしていた。そして、古きものと新しきものが隔たりなく連続的に続き、混沌の中に秩序をなす東京の都市表象は今回の会議で来日した海外からのイメージ学者たちにとってまたとない新鮮なイメージ経験となった。

日本固有のイメージが今回来日した西欧の研究者たちをどのように〈Akt〉することができたか、彼らがそのイメージをどのように読み解くのかについては各人の今後の研究成果に期待したいが、今回の学術会議が日本側の発表者や参加者にとってもインスピレーションを得る機会となったのであれば嬉しく思う。

最後に、今回の会議には発表者・参加者ともに多くの表象文化論学会関係者が駆けつけ、イベントを盛り上げてくれたことにこの場を借りて心よりお礼を申し上げたい。(坂本泰宏)