第11回大会報告 パネル4

第11回研究発表集会報告:パネル4:映像と言語──不可視のインフラストラクチャ|報告:武村知子

日時:2016年7月10日(日)14:00 - 16:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館24号室

キャラクターのアニメ映像的立ち上がりにおける画面と音の関係について
長田祥一(城西大学附属城西中学高等学校)

河明かりを見るということ、または映像におけるノイズと実物の関係について
浦野歩(一橋大学)

プログラミング言語の中の自然言語──映像と意味の相互関係から生じる二重状況
渡邊弘喜(一橋大学)

【コメンテーター/司会】武村知子(一橋大学)

本セッションは、映像認知のプロセスにおいてある種のベーシックな情報共有がいかにしてなされるか、普段は意識されることのないその仕組みを観察報告することを意図したものと理解されうる。その仕組みが普段意識されないのは、それが意識されないことによって初めて有効に発動しうるような仕組みになっているからである、という点が主旨であり、この主旨は三発表すべてに通底する。

第一発表は、アニメ、ことに日本発のリミテッド・アニメにおいて人物に付随する音声が果たす役割に注目し、音声と画面のテクニカルな連動がアニメキャラクターの立ち上がりを支えるその構造と、そこから必然的に招来される「キャラクターの存在の脆弱性」を指摘するものであった。あからさまに「死に絵」であるリミテッド・アニメのキャラクターは、人間の声であると瞬時に認知されうるところの声優の声と不断に接続され続けることで初めて「生きた人間」として認知され、物語を担うことができるようになるのだが、この接続は本来非常に脆弱であるため、キャラクターは常に「死に絵」へ還元される潜在的な危険にさらされている。接続が意識されることで返ってその接続自体が断たれてしまうのだが、こうした脆弱性を回避するテクニックの向上こそが日本リミテッド・アニメの進展史であり、結果として、脆弱性を逆手にとった特異な躍動性がジャパニメーションを特徴づけるに至ったという論旨は本来興味深いもので、日本における声優の特異な位置をもやがて説明しうるものである。フロアからの適確な指摘によって、本発表の論旨がディズニー的フルアニメとの比較におけるリミテッド・ジャパニメーション固有の問題に関わるものであることが明示され、説明の不備が補われた。

第二発表は、『河明かり』と題されるとある日本画作品が、展示され、撮影され、その写真が図録に掲載され、スキャンされてプロジェクタから投影される過程で、観賞者の脳裏にそのつど投影される「河明かり」──すなわち「河明かり」という呼称が指し示すもの──がいかに変異してゆくか、そのプロセスを克明にたどろうとする一種の媒体論であった。実物、写真、印刷物、投影画像と媒体が遷移してもなお、各媒体における「これ(画像)」が「『河明かり』という日本画作品」を指示し続けるという前提があって初めて、各媒体は「『河明かり』という日本画作品に関する情報伝達」という責務を果たせるのであるとすれば、各種媒体そのもの、なかんずく媒体の遷移というできごと自体は、鑑賞者の意識裡において巧みに隠蔽されていなくてはならない。この隠蔽は、責務を果たそうとする媒体側と、「実物そのままの様子を見たい」とでもいうべき鑑賞者側からの要請との双方向的な協働によって生じるが、鑑賞者によって媒体自体が意識されるとこの協働が破れる。この破れ目を発表者は「映像認知の穴」と呼び、この穴を招来するモメントを「ノイズ」と呼ぶ。この協働の構造を、黒色と白色の光学的および色彩的認知の仕組みから解き明かそうとする発表者のアプローチは、上手な論述をすれば、日本画『河明かり』の特異性とたいへんよく適合して、昨今言うところの画像・映像「共有」という概念の、危うさと裏表一体の有用性が拠って来たるところを本来よく説明しうる論旨であろうが、発表時の論述の各段階における「河明かり」(と称されるもの)と「実物」との関わりが明瞭でないというフロアからのコメントは、本発表の最も根幹的なポイントを衝いた上で論述の不備をも鋭く示唆するもので、まことに多とすべき指摘であった。

第三発表では、プログラミング言語中に含まれる自然言語要素が、人間サイドで行われるプログラムの読み書き営為およびコンピューターサイドで行われるプログラムの作動においてそれぞれ果たす役割を分析することが試みられた。ifやforなど英語由来の命令語や、プログラマーが恣意的に命名する関数名において、それらの「自然言語」由来の語が、プログラムを読み書きする人間にとってあくまでも自然言語として作用する性質を維持しつつ、コンピューターにとってはそうでないというのは、プログラミングに習熟した者にとっては当然のことでも、一般ユーザーにとっては実は相当に理解しづらいことであり、この理解しづらさが逆説的にコンピューターの「使用」の容易さと便宜とを支えている。他方この理解しづらさは、事態の説明しづらさをも直接的に呼び込むが、ソースコードをコンピュータが「読解」し「応答」する等というときに、その読解なり応答なりの「主体」は誰であると発表者は考えるのか、というフロアからの質問は、この理解しづらさ=説明しづらさの根幹にある言語論的問題へと発表論旨を開いてくれるものであり、規定時間内に納まりきらず中途で終えざるをえなかった本発表を最も適切に補填してくれる貴重なコメントであった。

総じて非常にわかりづらく聞きづらいパネルであったが、フロアから極めて適確なコメントが投げられ、テーマの展開にあたっての今後の課題が示された点、少なくとも発表者一同にとり有意義な、謝すべき二時間であったかと思う。パネルタイトルの「不可視のインフラストラクチャ」なる語句の含意について、せめて今少し議論する余地が欲しかったが、それもまた今後の課題とされよう。

武村知子(一橋大学)

【パネル概要】

およそ映像と呼びうるものが、ある平面に映り、人の目に映り、脳裏に映るその三段階は、それぞれ異なる複雑で膨大なプロセスを包摂しており、目に映る光学像と、ある内容的まとまりをもって認知される像=イメージとの間には、惑星探査機と地上基地ほどの懸隔がある。網膜に映る光学データが、例えばひとつの物語として受容される過程を織りなすのは、一般に「想像力」等と呼び慣わされてきた類の飛躍よりもむしろ、探査機が送信してきたデータが目に美しい惑星写真へと変換される過程で用いられる高等数学に似た緻密に論理的な処理の連鎖であるだろうが、時に魔術的効果を生み出すそれらの処理の連鎖を、高等数学や神経科学の用語ではなく人文的な言葉で叙述する余地が今なお多くあるとすれば、その叙述はいかなる形であるべきだろうか。

発表者はそれぞれ、アニメ論、建築論、テクスト論に足場を置きつつ、対象の現れとその支持媒体について思考を重ねる中で必然的に「映像」の生じる場所とその認知のプロセスを熟慮せざるをえない局面に立った者らである。動画における人物の躍動、二次元媒体に映る立体建築物、ディスプレイ上に表示される文字列、それらの映像的立ち上がりを支える基盤的な仕組みが、通常いかに看過され、不可視の形で機能しているかについて、可能な限り飛躍のない叙述を試みるが、そのさい当然この基盤機能への言語の寄与をも考えることになる。叙述自体がすでに仕組みの一環だからだ。


【発表概要】

キャラクターのアニメ映像的立ち上がりにおける画面と音の関係について
長田祥一(城西大学附属城西中学高等学校)

画面に映るアニメーションは、人の手で描かれ各種光学機器・情報機器に多くの工程を担われて初めて我々の目の前に提示される徹頭徹尾人為の産物である。この人為の産物たる視覚対象が我々の脳裏に像を結び同一的なキャラクターとして立ち上がるまでには、膨大な情報量を持つ画面の中からキャラクターに関する然るべき一部が突出して我々の目に映り、その連続ないし断続が、我々の脳裏に像を結び直し続け持続性を仮構し続けなければならない。

本発表では、画面から突出して我々の目に映るもののうち日本の商業アニメが先鋭化させてきた静と動の切り替わりに着目し、この切り替わりにおいて結ばれる画面と音の関係を考察する。画面における静と動の瞬時の交代は体感的な衝撃に類する感覚を我々にもたらし、画面からの視覚対象の突出というものを我々の目に向けての文字通りの突出とする。そしてその突出を我々の目が受けると同時に耳に音が聞こえる一瞬の局面においては、視覚要素・聴覚要素と我々がそれぞれ関係を取り結び、その結果両要素同士が関係を取り結ぶという、それ自体は決して突出しない過程が辿られる。この過程は瞬時に辿られつつ看過されるが、これが看過されるからこそアニメのキャラクターは同一性を獲得するのだし、そこにおいてこそ音の役割、音のみが持つ持続性や個別性の重要性も明らかになる。この看過の過程を捨象しては、アニメを考えることはできない。

河明かりを見るということ、または映像におけるノイズと実物の関係について
浦野歩(一橋大学)

本発表では梶岡俊幸作の日本画《河明かり》を対象とするが、思索の対象はむしろ、《河明かり》を掲載した図録の図版やその元となった写真、スキャンされたデータやプロジェクタなどである。これら印刷媒体、映像媒体においては、それぞれの仕方で、実作品の視覚的様相をできる限り忠実に再現することが目指される。その際にはノイズ、つまり実作品の視覚的様相を見るに際して余計な、各媒体固有の情報が、可能な限り減殺される。このノイズの減殺は、各媒体の忠実な再現を我々が単に「河明かり」という名で呼ぶことで達成されるものだが、ここで同時に、何を河明かりと見なしているのか、という問いも封殺される。今回はノイズの減殺と問いの封殺の過程を辿り、ノイズに現れる各媒体特有の問題に注目することで、各媒体の下部構造と、我々が個々に見る《河明かり》/「河明かり」との連関を明らかにする。

この発表は建物記述についての思索の端緒でもある。我々は建物という三次元的立体物を把握し記述するために膨大なノイズを看過せざるをえないが、そこで使用される言葉は二次元的媒体に多大な影響を受けている。ゆえに建物を語るにはその影響関係に言及し、建物とその映像の関係に注目することが不可欠であるが、殊に白黒と光の関係性はそこで決定的な役割を果たす。白黒のみで構成された《河明かり》/「河明かり」はその意味で、建物を語る根源にあるものを提示していると言える。

プログラミング言語の中の自然言語──映像と意味の相互関係から生じる二重状況
渡邊弘喜(一橋大学)

自然言語は、プログラミング言語という人工の言語の理解と使用の中で、ささやかではあっても幾分奇妙な位置を占めている。本発表では普段あまり意識されることがないこの問題について、自然言語の言葉の意味とコンピュータプログラムの意味との関係から検討する。

プログラミングにおいて自然言語の文字や言葉が用いられるのは、手続きや変数を作る際の命名の過程に顕著なように、人がプログラムを理解するために自然言語の言葉がもつ意味を必要とするからである。しかし文字の本質は、人にとってはその視覚性にこそあるが、コンピュータにとってはビットの並びというデータとしての性質にある。つまり人にはソースコードがどう見えるのかという映像的な様相が重要となるが、プログラムを動かすコンピュータには、自然言語の言葉としての意味は何の関わりもなく、見え方などは付随的な事柄にすぎない。人の目にどう見えるのかという映像としてのあり方と、命令を与える言語としてのあり方という、本来書記言語において同一であったものが、もはや同一ではないという状況の中に、コンピュータにおける自然言語は置かれているのである。ただそれが通常同一なものとして見えるようにされている。ゆえにプログラミング言語の中の自然言語の存在は、プログラムの理解に不可欠でありながら、この両言語の関係に内在する「プログラムを理解することの困難さ」自体を見えなくしてもいる。