第11回大会報告 パネル1

第11回研究発表集会報告:パネル1:明治大正期のインターメディアリティ- 写真・幻燈・映画の文化的複合性をめぐって|報告:久後香純

日時:2016年7月10日(日)10:00 - 12:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館23号室

明治期における写真術の日用品への応用
遠藤みゆき(早稲田大学、東京都写真美術館)

明治初年のスクリーン・プラクティス:映画前史における上映の諸問題
大久保遼(愛知大学)

連鎖劇の興行形態と日本映画のスタイルとの関係性
上田学(東京工芸大学)

【コメンテーター】長谷正人(早稲田大学)
【司会】草原真知子(早稲田大学)

本パネルが考察の対象にしたのは、明治大正期の「インターメディアリティ」、すなわち写真や映画、舞台といったそれぞれの媒体を横断する形で行われていた様々なメディア的実践である。それぞれの研究発表では、「陶器に写された写真」、「幻燈や写し絵など明治初年の映像文化」、「連鎖劇の興行形態」が取り上げられた。3者に共通するのは、いずれもイメージの支持体に着目していることであり、現代の映像文化を見直すためのイメージ考古学的視点がパネル全体での問題意識であった。

遠藤みゆき氏の研究発表は、日常生活に写真的イメージが溢れた現代の環境を捉えるために、写真的イメージが過剰に生み出されつつあった明治期に生み出された「陶器写真」の存在を考察するものであった。「陶器写真/写真陶器」は、イメージである写真と、イメージの支持体となる陶磁器、どちらを主とするかで呼び方が異なっていたことが示され、陶器写真の製造と受容の背景が多様に広がっていたことが窺われた。しかしながら、陶器写真は1889年にはすでに「忘れ去られた技法」と呼称されるにいたる。その理由としては、製造に技術と資金が必要とされたこと、写真に求められる報道、芸術などといった役割の共通認識が整えられたこと、市場においては日常的に使用する食器が求められ、普段使いのテーブルセットには陶器写真が適さなかったという社会的な側面があげられる。美術史に倣い美学的な観点から構築されてきた写真史を見直し、写真の社会史的側面を取り上げることで、写真の歴史を再構築するための新たな糸口が提示された発表であった。

幻燈や写し絵といった明治初年のスクリーンプラクティスを考察することによって、これまで一般的であった映画理論とは異なった方法で映像についての考察を試みようとするのが、大久保遼氏の発表であった。写し絵に顕著に現れるような可動的な映像は、〈映画・映画館・観客〉というモデルでは捉えきれない上映形態であり、そのような映像の流動性は、現在におけるゲーム機器やタブレット端末などのメディア環境の特徴と共通している。このような現象を論じるために、大久保氏はエイゼンシュテインによる「アトラクションのモンタージュ」に注目する。なぜなら、現在一般的に映画理論書として受け入れられている、「アトラクションのモンタージュ」における議論は演劇の演出理論として出発し、諸アトラクションを綜合するための、演劇=映像の理論としてのモンタージュ理論であったからである。

上田学氏の発表の研究対象は、連鎖劇の興行形態である。映画と演劇を交えてプレゼンテーションする舞台である連鎖劇は、興行取締規則が布かれたことにより衰退したと考えられてきた。それに対して上田氏の研究は、連鎖劇を同時代の日本映画のスタイルや映画館の様式の変化との関連において再評価することを目指したものである。連鎖劇において観客の興味を引いたのは、リュミエール映画と同じように、劇場では再現が不可能な自然などのありのままの姿であったという。一方同時代の日本映画のスタイルは、舞台演劇を映像として表象することに留まっていたことが、歌舞伎の代替物であった声色弁士の活躍や、歌舞伎劇場と映画館の建築様式の類似が例にあげられて示された。また、連鎖劇が1910年代後半東京で衰退したあとも上演が続けられた上方や地方では映画のトーキー化が遅れていることが指摘され、複線的な日本映画史の叙述の必要性が明らかにされた。

コメンテーターの長谷正人氏からは、三者は共通して作品の記号を読み解く分析ではなく、研究対象がどう受容されているかという社会的コンテクストを分析する研究であることが指摘され、必ずしも研究領域が重なっているわけではない3つの発表の共通の土俵が整えられたように感じられた。そして、近代的パラダイムが成立する以前の事例を考古学的に探る研究をする意義として、現代のなかに近代的枠組みで捉えきれない文化の潮流が現れていることを分析することにあるのではないかという提案がなされた。            

司会の草原真知子先生からもそれぞれの発表に補足が付け加えられ、研究の発展に向けての補助線が引かれた。遠藤氏の発表に対しては、戦地に赴く将校のポートレイトを油絵にするか写真にするか論争が起こった歴史に触れ、明治期においては写真に保証されていなかった保存性を陶器写真は提供するものであった可能性があることが補足された。大久保さんに対しては、先行研究においても曖昧になっている「見世物」の定義を明らかにする必要性が述べられた。それに加え、パノラマ館は本来組み立て式で巡業を行っていたことや、大統領選挙の速報を幻燈で写していたことが街頭テレビへと発展していくことなど、映像のモビリティとその場所の問題がこれから検証されるべき課題としてあげられた。上田さんの発表に対しては、日本では廃れた連鎖劇と同じ形態をとるチェコのラテルナマジカが60年代のモントリオール万博で評判を呼び、後の万博にも引き継がれた例があることが述べられた。

質疑では、遠藤氏には陶磁器メーカーであるウェッジウッド社の創始者の弟が写真の発明に貢献していることからも、陶器写真はヴァナキュラーな写真研究に留まるものではなく、写真の発明そのものとの関わりが考えられるのではないかとの意見がよせられた。さらに、遠藤氏の発表は写真史からの視点で陶器写真を見る物であったが、陶芸史の文脈から考えると新しい展開があるのではないか、なぜ陶器に写真がプリントされたかを考えるためにはその物質性に注意する必要があるのではないかとの指摘もあった。大久保氏にはスクリーンの多様性について質問があった。光源から映写されるプロジェクターとそれ自体が発光するモニター画面は同一に考えていいのか、〈スクリーン・パフォーマー・観客〉に加えて照明も考察の対象に入れるべきではないかというものである。それに対する応答として、光源は空間性に関わる問題であり、モニター式とプロジェクター式の画面の差異について考えるためには、今後テレビを研究のなかでどう位置づけるかが重要であることが確認された。上田氏に対しては、アメリカのシネマパレスにおいても桟敷席がもうけられている例から、映画を見るのに適しているという基準とは異なった見世物を受容する価値観は日本に限定せずに普遍化して考えられるのではないかという指摘があった。

久後香純(早稲田大学)

【パネル概要】

明治大正期は、日本の映像文化にとって長い移行期間であったといえるだろう。西欧から次々と伝来した写真、幻燈、映画といったメディアが、既存の視覚文化や劇場文化と折衝を繰り返しながら、変容し、定着していったからだ。こうした長いプロセスはたしかに西欧近代の浸透による視覚の再編の一側面であるといえるのだが、しかしマーティン・ジェイが注意をうながすように、実際の視覚をめぐる制度や実践は調和した統一体ではなく、さまざまな要素が競合する複合的な場であると捉えられる。明治大正期にあっては、個別メディアの歴史があるというよりも、複数のメディアが競合し、交錯し、変容を続けていくような一連のプロセスの方がむしろ常態であったと言えるのではないだろうか。

本パネルでは、こうした明治大正期の視覚文化・映像文化におけるメディア横断的な関係に焦点をあて、それを陶器写真(遠藤)、写し絵と幻燈(大久保)、連鎖劇(上田)という具体的な対象から検討していく。個別の報告で取り上げられる対象は、これまでの研究において必ずしも中心的な主題として扱われてきたわけではないが、イメージとモノ、映像とパフォーマンス、演劇と映画を横断する点で、この移行期の特徴を顕在化させているといえるだろう。各報告を通じて、周縁的な対象にフォーカスすることの意義や、方法論的な課題、アーカイブとの関係や現代的な意義についても議論していきたい。


【発表概要】

明治期における写真術の日用品への応用
遠藤みゆき(早稲田大学、東京都写真美術館)

本発表では陶器写真を中心に、明治期において試みられた陶器や布などへの像の焼き付け、および同様の技術によって商品化された物品について考察をおこなう。陶器写真自体は日本だけでなく、写真が発明されたのちにフランス、イギリスなどにおいて作例が確認できる。日本では19世紀末に写真雑誌等により、海外の写真界の動向とともに紹介された。

日本において幕末に渡来した写真術は、その流布の過程において様々な他のメディアと出会い、ときに融合しながら、写真師たちによって社会に根付くための最適な形態が模索された。同時に一般の人々も、未知のメディアである写真を既存のメディアに重ね、明治期を通し徐々に理解し、受け入れる素地を作り上げていった。

陶器写真は陶器と写真の融合であるが、例えば絵画であれば写真画が、幻燈であれば写真を焼き付けた種板が、当時の最先端の描画法・技術としてもてはやされ、巷に流布した。その点からいえば、陶器写真とは陶器という既存のメディアに、写真という新たなメディアを重ねる試みであったが、その後定着することはなく、技術は立ち消えてしまった。

陶器写真だけでなく、写真を焼き付けた布を応用した商品など、写真術の黎明期に誕生し、一時の間に消えた物品は少なくない。それらは当初どのような狙いで生み出され、またなぜ、忘れ去られるに至ったのか。本発表を通し考察を試みる。

明治初年のスクリーン・プラクティス:映画前史における上映の諸問題
大久保遼(愛知大学)

映画史家のチャールズ・マッサーは、映画の発明を起源とする単線的な映画史の記述を批判し、映画をそれ以前に存在したマジック・ランタンによるスクリーンへの映像の投影や劇場における各種パフォーマンスと連続する「スクリーン・プラクティス」の歴史のなかで捉えることを提案した。このとき映像は、スクリーンを取り巻く音楽や観客の蠢き、さまざまなパフォーマンスのなかの一つの要素となる。本報告では、まず写し絵や幻燈といった映画前史における多様なスクリーン・プラクティスを振り返り、あらためてその特徴を確認したい。ここで問題になるのは、映像自体の構成というよりも、映像と一体となった装置やその空間的配置、映像とパフォーマンスの交錯であり、寄席文化との関係や語り、音楽といった上演的な要素とスクリーンに投影される上映的な要素とのメディア横断的な関係性である。

それでは、「映画=映画館=観客」という安定した関係を前提としないとき、スクリーン・プラクティスをいかに論じることができるだろうか。これまでの映画理論による分析以外の可能性は残されているのだろうか。本報告では、セルゲイ・エイゼンシュテインの著名な「アトラクションのモンタージュ」の構想が、もともと演劇から引き出されている点にあらためて注目することで、この問題を考えるきっかけとしたい。

連鎖劇の興行形態と日本映画のスタイルとの関係性
上田学(東京工芸大学)

連鎖劇とは、映画と演劇を組み合わせた明治大正期の興行形態の一つであり、一般的には1900年代半ばに登場し、1920年前後に衰退していったとされる。本発表は、この歴史的に映画のみの上映をもしのぐ人気を集めた特異な興行形態を考察することで、日本映画のスタイルの形成期である1910年代をめぐる状況を再考し、あらためて連鎖劇の衰退の要因を考察するものである。

連鎖劇という興行形態が、なぜ特定の時期に出現し、そして衰退していったのかを明らかにするために、同時代の日本映画のスタイルとの関係性は重要だと考えられる。1910年代から1920年代前半にかけての日本映画は、旧派・新派の日本演劇の影響下にあったヴァナキュラーなスタイルから、古典的ハリウッド映画のインターナショナルなスタイルを取り入れ、変容していく過渡期にあった。このようなスタイルの変容が、連鎖劇の隆盛と衰退に、どのような点で結びついていたのかを考察する。

さらに連鎖劇の衰退という問題を再定義するために、従来は日本映画の製作拠点であった、東京や京都を中心に語られてきた日本映画史に、地方史の視点を導入したい。連鎖劇の衰退は、都市と地方では異なる傾向をみせていたからである。この点について、早稲田大学演劇博物館が所蔵する連鎖劇台本の調査成果を報告し、1920年前後における連鎖劇の衰退が、観客の地域性に関わる問題であったことを明らかにする。