研究ノート 古川萌

顕現する身体、消滅する身体
──ラファエッロとミケランジェロの遺骨をめぐって
古川萌

フィレンツェ、サンタ・クローチェ聖堂。聖堂の正面入口から入ってすぐ右手に見える墓碑は、イタリアルネサンスを代表する芸術家ミケランジェロ・ブオナローティ[Michelangelo Buonarroti: 1475-1564]の墓である【図1】(※1)。1857年9月、ミケランジェロの血筋の最後の一人にあたるコジモ・ブオナローティの妻が亡くなり、墓は彼女の埋葬のために開かれようとしていた(※2)。偉大なる芸術家の遺体を検分するためではなかったとはいえ、このイベントに立ち会った人々は、その24年前にやはり墓の検分がおこなわれた、ルネサンスを代表するもう一人の芸術家、ラファエッロ・サンティ[Raffaello Santi: 1483-1520]のことを思い出していただろう。というのもこの二人においては、19世紀にその墓が開かれたという事実のみならず、その身体の重要性においても共通性が見出されるからである。したがって以下では、この二人の遺骨をめぐって19世紀に起こった一連の出来事を追いながら、芸術家の身体とその接触について考えてみたい。

ジョヴァンニ・バンディーニ、ヴァレリオ・チョーリ、バッティスタ・ロレンツィ(ジョルジョ・ヴァザーリの図案に基づく)《ミケランジェロ墓碑》、1564-75年、大理石、サンタ・クローチェ聖堂、フィレンツェ(筆者撮影)

【図1】
ジョヴァンニ・バンディーニ、ヴァレリオ・チョーリ、バッティスタ・ロレンツィ(ジョルジョ・ヴァザーリの図案に基づく)《ミケランジェロ墓碑》、1564-75年、大理石、サンタ・クローチェ聖堂、フィレンツェ(筆者撮影)


Ⅰ.ラファエッロの顕現

ローマのパンテオンにあるラファエッロの墓【図2】が1833年に開かれたのは、しばらく続いてきた論争に終止符を打つためであった。当時ローマでは三つの異なる場所がそれぞれラファエッロの頭蓋骨の所有を主張しており、どれが「本物」であるのか分からなかったのである(※3)。

その三つの場所、すなわちパンテオン、ローマの美術アカデミーであるアカデミア・ディ・サン・ルカ、そしてサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂のうち、三つめのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂のものはすぐに否定された。問題はアカデミアが持っていた頭蓋骨で、アカデミアはこれをラファエッロのものと信じ、月桂冠をかぶせて《ラファエッロが見るなかで聖母を描く聖ルカ》【図3】の隣に置いていた。

ロレンツェット《石の聖母(ラファエッロ墓碑)》、1523-24年、大理石、パンテオン、ローマ(筆者撮影)

【図2】
ロレンツェット《石の聖母(ラファエッロ墓碑)》、1523-24年、大理石、パンテオン、ローマ(筆者撮影)

ラファエッロに帰属《ラファエッロが見るなかで聖母を描く聖ルカ》、1510年代(?)、カンヴァスに油彩、アカデミア・ディ・サン・ルカ、ローマ( http://www.nga.gov/casva/accademia/index_ita.shtm より)

【図3】
ラファエッロに帰属《ラファエッロが見るなかで聖母を描く聖ルカ》、1510年代(?)、カンヴァスに油彩、アカデミア・ディ・サン・ルカ、ローマ(http://www.nga.gov/casva/accademia/index_ita.shtm より)

18世紀のあいだ、アカデミアでは若い芸術家たちが絵筆や鉛筆などでこの頭蓋骨に触れる風習があったという(※4)。ゲーテは『イタリア紀行』のなかで、この頭蓋骨を実際に見たときのことを記している。

ラファエッロの頭蓋が納められている聖ルカ美術院の蒐集品を見た。ラファエッロの遺骨は、私には本物のように思われる。美しい魂がその中を安らかにさまよい得たであろうような、りっぱな骨格である。公爵はこれの模造を欲しがっておられるが、私は多分それを手に入れうるであろう。ラファエッロの描いた絵で同じ室にかけられているものは、彼の手に成っただけのことはある。(※5

このように崇拝を集めるアカデミアの頭蓋骨だったが、ラファエッロの骨がパンテオンに埋葬されていることは伝記の記述や現地に残された墓碑銘から明らかだったので、墓から頭蓋骨が発見された場合、アカデミアの頭蓋骨はほかの誰かのものということになる。それゆえ、ローマの美術界が固唾を飲んでこの墓の検分に注目する事態となった。検分には、美術一般委員会、アカデミア・ディ・サン・ルカ、ローマ考古学アカデミーといった各種協会の面々が立ち会い、群衆は緊張のなか壁に向かって振り下ろされるハンマーを見守った。そのときの様子は、その場に居合わせたローマ考古学アカデミー会長ピエトロ・オデスカルキの詳細な記録から知ることができる。

我々の心の目にはあのアーチの下にラファエッロの骨がすでに映っており、欲求は計り知れないほどに膨らんでいた。〔…〕しかしそこには(すでに前部の踏み段の下で観察されたように)ばらばらに置かれ、乱雑に積み重ねられた人骨のかけらが詰まっているほかには何もなかった。「もうない! もうない!」我々全員の叫び声が響きわたった。(※6

はじめ遺骨はもはや塵と化してしまったかのように思われ、群衆のあいだに絶望が広がった。だがその二日後、骨は徐々にその姿を現すこととなる。その過程もやはりオデスカルキによって伝えられている。少し長いが引用したい。

アーチをさらう作業は続けられ、ついに残骸のなかに骨が現れるのを見た。それは魂を喜ばせながら同時にかき乱す、感情を扇動する情景だった!〔…〕したがって、〔骨は〕アーチの右側から一つ、また左側からもう一つといった具合で集められた。それは仕事として必要な作業ではあったのだが、彼らはたいへんな入念さでもってそこに落ちていたすべてのものを両手に拾い集めただけでなく、骨を覆っていた土もできるだけ取り除いた。やがて、そこに横たわる骸骨が少しずつ姿を現した。〔…〕そうして彼らそれぞれが、少しずつ発見された部分を手に取り、報告しながら整然と並べていった。見るにも聞くにもじつに驚異的だったのは、ガスパーレ・サルヴィ〔アカデミア・ディ・サン・ルカ会長〕が、大いなる感嘆の純粋な念に打ち震えてすっかり顔色を変えたかと思うと、感激した声で叫んだときである。「頭だ! 私はこれを自身の手で包み、きわめて状態のよい歯の歯冠を人差し指でなぞった!」(※7

以上の記述に見られるように骨の出現はゆるやかであったが、頭部の発見に人々は叫び声をあげ、歓喜の涙を流したという(※8)。まもなく墓の検分の様子を描いた版画や絵画が公的に制作され【図4、5】、多くの人々がラファエッロの「復活」を目撃することとなった。消え去ってしまったかと思われた身体が二日後に発見される過程は、死んで三日後に蘇ったキリストを連想させたかもしれない。また、サルヴィによる骨との接触の強調は、この身体にますます聖遺物的な性格を付与しただろう。実際、ラファエッロの墓はこれ以降「神殿」と化し、救済を望む貧しい芸術家たちがそこに小さな絵を置いて祈りを捧げるようになった(※9)。

ジャンバッティスタ・ボラーニ(ヴィンチェンツォ・カムッチーニの素描に基づく)《墓開きの際のラファエッロの骸骨》、1833年、リトグラフ、トーヴァルセン美術館、コペンハーゲン( http://www.thorvaldsensmuseum.dk/ より)

【図4】
ジャンバッティスタ・ボラーニ(ヴィンチェンツォ・カムッチーニの素描に基づく)《墓開きの際のラファエッロの骸骨》、1833年、リトグラフ、トーヴァルセン美術館、コペンハーゲン
http://www.thorvaldsensmuseum.dk/ より)

ジャンバッティスタ・ボラーニ(ヴィンチェンツォ・カムッチーニの素描に基づく)《墓開きの際のラファエッロの骸骨》、1833年、リトグラフ、トーヴァルセン美術館、コペンハーゲン( http://www.thorvaldsensmuseum.dk/ より)

【図5】
フランチェスコ・ディオフェービ《1833年におこなわれたパンテオンでのラファエッロの墓開き》、1836年、カンヴァスに油彩、トーヴァルセン美術館、コペンハーゲン
http://www.thorvaldsensmuseum.dk/ より)


Ⅱ.ミケランジェロの消滅

聖性を帯びることになるもう一人の芸術家、ミケランジェロの身体の重要性を確認するには、彼が亡くなった1564年2月にまで遡らなくてはならない。ミケランジェロはローマで亡くなったが、本人の遺志により遺体はフィレンツェに移送され、ときの君主コジモ一世・デ・メディチの援助を受けて、芸術家のものとしては異例の規模を誇る葬儀と墓碑が与えられた(※10)。埋葬に関わる諸々の指揮を執ったのは、その前年にあたる1563年に創立されたばかりであったアカデミア・デル・ディセーニョである。最初期の美術アカデミーとして名高いこの団体は、画家・建築家ジョルジョ・ヴァザーリと人文主義者ヴィンチェンツォ・ボルギーニによって発足され、ミケランジェロをその「第一のアカデミア会員かつ指導者」に定めていた(※11)。

長い期間にわたる不在を経てフィレンツェに帰還したミケランジェロの身体を迎えたのは、フィレンツェの人々の熱狂である。1564年3月12日深夜、葬儀に先だってフィレンツェに到着した棺は、アカデミアのメンバーらによって秘密裡にサンタ・クローチェ聖堂に運ばれる手はずが整えられた(※12)。しかし、生前から「神のごとき」と謳われたミケランジェロの遺体がフィレンツェに到着したことを、噂好きのフィレンツェ人たちから隠しておけるはずもない。当然のごとく深夜のサンタ・クローチェ聖堂はミケランジェロの遺体を一目見たい人々で溢れ、群衆を持て余したボルギーニは、驚くべき決断をした。その場で棺を開け、遺体を人々に公開したのである。そのときのことを、後にヴァザーリは以下のように記している。

棺が開けられると、彼〔ボルギーニ〕ばかりか参列していたわれわれ全ても、ミケランジェロは25日間死んだ状態にあり22日間棺の中に置かれていたので、その遺体はすでに腐乱してだめになっていると信じていたが、すべての部分にわたって腐臭を発しておらず、むしろ安らかで静謐そのものの眠りについていると信じたくなるような姿を見ることになった。顔かたちがまさしく生前のままであったばかりか(色は少しは死者のそれのようであった)腐乱したり不快な感じのする四肢はなかった。頭部や顔は、触れると、少し前に死んだばかりのようであった。(※13

いくらまだ寒さの続く3月初頭であったとしても、本当に遺体がまったく腐敗していなかったかどうか、今となってはもはや分からない。しかし特筆すべきなのは、ここでこの芸術家の遺体に付与された役割である。時に影響されず朽ちない身体は、まさしく聖なる人物に属するべきものに思われただろう。ミケランジェロの止まった時間は、とりわけ「触れる」ことによって明らかにされる。〈トマスの不信〉のように接触により聖性は示されるのであり、それはまさしく、生前から「神のごとき」と謳われたミケランジェロの身体にこそふさわしいものであった。

それゆえ、あらゆるものは時間の前に無力だが、その流れゆく時間にさえ抗って己の姿を伝えゆくミケランジェロの身体を、1857年にサンタ・クローチェ聖堂に集った人々は期待していた。実のところ、その期待はあながち根拠のないものでもなかった。ミケランジェロの墓が開かれるのはこれがはじめてではなく、1732年にも同じようにその遺骨を目にする機会があったからである。18世紀の検分を記録したジョヴァンニ・ガエターノ・ボッターリのことばを借りれば、そのとき「〔ミケランジェロの〕遺体はそのままであった」のだ(※14)。これと同じ光景を1857年の人々は予想していたにちがいない。

しかしながら、予想は裏切られた。アナトール・ド・モンテグロンによると、そこで発見されたのは「消滅した身体の輪郭線をなぞるように残された、無言にして黄ばんだぼろぼろの塵」だった(※15)。おそらく125年の歳月のうちに遺骨は風化してしまったのだろう。発見の様子を語るサンタ・クローチェ聖堂アーカイヴ主任管理人ジュゼッペ・ペッリ・ファブローニによる以下の短い記述は、とりわけミケランジェロの身体のもろさを際立たせている。

頭部の周りにたくさんの細糸が螺旋状に絡まっているのを見た。それらの細糸は黒っぽい色をしていて、触れると塵となって消失した。(※16

ここで「細糸」と説明されているものはおそらく少しだけ残ったミケランジェロの髪の毛だったのだろう。亡くなっても死者のように見えず、18世紀においてもなお遺骨がそのままであったミケランジェロの身体は、ここに来て非常にはかないものとして示される。しかもそのはかなさは、これまで芸術家の朽ちない身体や終わりなき名声をあらわしてきた、「接触」によって暴かれるのである。

この役割の逆転は、「接触」が孕むパラドックスを浮き彫りにする。つまり、触れれば対象を損なってしまうが、触れなければその聖性を確認することはできないのだ。ミケランジェロの身体は触れられることによりいまや永遠に失われてしまったが、その「消滅した身体の輪郭線」は周縁に蓄積した「塵」によって確認することができる。結局、芸術家の身体はその存在を跡づける「塵」、すなわち残された作品や道具や逸話によってのみ形づくられるのである。

以上、19世紀に発掘されたラファエッロとミケランジェロの遺骨をめぐって、芸術家の身体と接触について考察を試みた。21世紀に生きる私たちにはもはや、過去の芸術家の遺物に触れる機会がほとんどない。美術作品であれ、芸術家の生涯にかかわる何らかの対象であれ、それらはむやみに触れることができないものとなった。そのような状況のなかで、芸術家の周縁に残された「塵」──作品や、道具や、彼らのための墓──を見るためにさまざまな場所に足を運ぶことは、失われた身体を形づくることにほかならない。私たちは塵の輪郭線をなぞっていくことで、身体の不在をあらためて確認し、その接触の不可能性によって芸術家に新たな聖性を付与するのである。

古川萌(京都大学/日本学術振興会)

[脚注]

※1 現在の入り口は異なり、北側の扉から入るようになっている。

※2 Michelangelo Buonarroti: Ricordo al popolo italiano, Florence: Sansoni, 1875, p. 167.

※3 Maria H. Loh, Still Lives: Death, Desire, and the Portrait of the Old Masters, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2015, p. 210.

※4 Francesco Milizia, Memorie degli architetti antichi e moderni, terza edizione, vol.1, 1781, Parma: Stamperia Reale, p. 204.

※5 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『イタリア紀行(下)』相良守峯訳、岩波書店、1960年、238頁.

※6 Pietro D. Odescalchi, Istoria del ritrovamento delle spoglie mortali di Raffaello Sanzio da Urbino, Roma: Antonio Boulzaler, 1833, p. 12.

※7 Ibid., pp. 14-15.

※8 Carlo Falconieri, Memoria intorno il rinvenimento delle Ossa di Raffaello Sanzio, Roma: Tipografia Giunchi e Menicanti, 1833, p. 11.

※9 “The Raphael Celebration at Rome,” Illustrated London News, 1883.

※10 Rudolf & Margot Wittkower, The Divine Michelangelo: The Florentine Academy’s Homage on His Death in 1564, London: Phaidon, 1964.

※11 Ibid., p. 11.

※12 Ibid., pp. 14-16.

※13 Giorgio Vasari, “Vita di Michelagnolo Buonarroti,” Le vite de’ più eccelenti pittori, scultori et architettori, nelle redazioni affrontate del 1550 e 1568, a cura di Paola Barocchi e Rosanna Bettarini, Firenze: Sansoni, 1966-76, vol. VI, p. 128.

※14 Giorgio Vasari, Vita di Michelangelo nella redazioni del 1550 e del 1568, a cura di Paola Barocchi, vol. IV, Milano: Riccardo Ricciardi, 1962, p. 2165.

※15 Charles Blanc, et al., L’Oeuvre et la Vie de Michel-Ange, dessinateur, sculteur, peintre, architecte et poëte, Paris: Gazette des beaux-arts, 1876, p. 300.

※16 Giuseppe Pelli Fabbroni, “La tomba del Buonarroti in Santa Croce, e le ceneri di Michelangiolo,” Archivio storico italiano, t.6, pt.1, 1857, p. 158.