研究ノート 島田貴史

脱構築(「デリダ」でなく)の複数性の/形での継承
島田貴史


昨年、ジャック・デリダ没後10年に際し、「脱構築研究会」は様々なイベントを行った。私も表象文化論学会(第9回大会)において、没後10周年のパネルに登壇した。拙発表の題目は「力の差異としての歴史の構想――デリダのハイデガー、ニーチェ読解から」である(報告は以下参照:http://repre.org/repre/vol22/conference09/panel07/)。今後の研究の大きな展望に代え、ここでは拙発表の小さな補遺をしたためたい。そこで扱えなかったある先行研究を、拙発表と同じ観点から(ただし歴史の問題には立ち入れない)ごくわずかに取り上げ、今後いわゆる〈デリダ研究〉を行う際の小序としたい。先行研究とは東浩紀氏の『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)である。元となる論文の連載は、デリダ没年の10年前、1994年から開始された。

まず拙発表の要点を簡潔に述べる。デリダは『法の力』の冒頭において、〈力の差異としての歴史〉について言及する。曰く、力の差異的性格(le caractère différentiel de la force)においてはパラドクシカルな諸状況が問題となり、そこでは最大の力と最大の弱さとが奇妙にも(異他的に)交換される(s’échangent étrangement)。そしてそれが歴史の全体(そのまま丸ごと歴史)である ※1。拙発表では、この力の強弱の交換を、可能/不可能の交換としても読み替え、デリダが、ハイデガーとニーチェとにおける歴史の問題を力の強弱および可能/不可能の交換の観点から再構成する〈力の差異として歴史〉の構想を持っていたのではないか、と提起した。では、この観点から氏の『存在論的、郵便的』をいかに読むか、またそこからいかなる問題が立ち上がるか。


それらの問いへの取り組みに先立って、必ずしもデリダの著作に親しんでいない読者の方々にとって本論が少しでも読みやすいものとなるよう、以下で検討する事態を噛み砕いて整理したい。

まず、差異とは何であるかを思考する場面を想定してみる。その際に人は差異と同一性とを区別するだろう。しかしこの二項対立による思考は、結局、思考の対象(差異)にその名の規定(「差異」)を与えることで同一性を与えており(「差異」という名による同一性)、したがって、対立の両項いずれをも名の規定による同一性のうちで捉えることで、差異を思考し損ねている。

むしろ真に思考すべきであったのは、差異と同一性との「区別」という〈差異〉である(差異と同一性との差異)。そしてこの〈区別の差異〉において、上記の可能/不可能の交換がなされている。なぜなら、差異にその名の規定を与えることで差異を思考することが可能になったと同時に、名の規定の同一性を与えることで差異の思考が不可能になったからだ。この〈区別の差異〉にまた別の名の規定の同一性を与える限り、議論は反復され、そのつど可能/不可能の交換が起こる。

こうしたことは、その名が散種であれ、郵便であれ、複数性であれ、基本的には変わりがない。それらの名がいずれも何らかの同一性との差異を意味する限り、その差異をそれらの名の規定の同一性によって体系化、システム化、形式化することは、その差異の思考を同時に不可能にする。

結局、差異は、思考不可能なものとしてしか思考可能でなく、この可能/不可能の交換がどちらかで終わることはない。そして差異が思考不可能なものとして依然思考可能であるゆえに、差異はこの交換のなかで、思考に対して、新たな議論の場を、議論の理路を開く。その理路のうちで思考は、ある名の規定による同一性のうちで差異を思考し損ねたために、様々な他の名を用いながら、同一性との差異を思考し続けることになる。

以下に見るように、氏の『存在論的、郵便的』の理路を開き続けたのは上記の可能/不可能の交換であった。最終的に議論は「デリダ」の名にまで及び、この名を放棄するにいたるのだが、その消息は、本書の具体的議論に即して見るべきだろう。以下、前節の終わりに立てた二つの問いに取り組むとする。


いかに読むか。まず本書の不可解な箇所を提示し、注記を付して本論の限界を定める。本書は冒頭で二種類の複数性(多様性)、つまり多義性と散種とを分け(一章、14頁)、この対にゲーデル的/デリダ的脱構築(二章、92頁)の対を重ね、前者をハイデガー的解体(三章、152頁)と言い換え、その対に一つ(単数)の形而上学と否定神学/複数の郵便=誤配システムの対を(164頁)、さらにハイデガー的、論理的‐存在論的脱構築/フロイト的、郵便的‐精神分析的脱構築の対を(四章、214頁)重ねる。したがって、冒頭の多義性/散種の区別がその後の全行程を大きく(完全にではない)規定する。不可解さはまさにその冒頭の区別の箇所にある。氏はそこで二作品から引用するが、当該の区別に関するデリダの強調と留保を抜き(「あいだの空間〔un espace entre〕」 ※2、「隔てること、いわば〔d’écarter, en quelque sorte〕」 ※3)、さらにその区別に関し「明確に」なる語を二度用いる。

確認すべきは、デリダがそこで二種類の複数性(多様性)〔…〕を明確に区別していることである。〔…〕「〔…〕混乱は、耳でそれとして受け取られるのではない。同様に目だけで受け取られるのでもない。差異における混乱は、目と耳のあいだの空間を要求する」。〔…〕デリダは一般に、これら耳(パロール)の多様性と目(エクリチュール)の多様性とを〔…〕「多義性 polysémie」と「散種 dissémination」と名付けている。〔改行〕二つの多様性の関係をより明確にするため、つぎに七一年の論文〔…〕を参照してみよう。多義性と散種という二つの概念を「隔てる」ことをひとつの目的とするこの論文で〔…〕。〔14頁、下線引用者〕

強調と留保が意味するのは、重要なものは目でも耳でも、多義性でも散種でさえもなく、その「あいだ」と「」たりであること、また、強調と留保により初めて「あいだ」と「」たりにある問題が示唆されうるということである。先取りすればこの問題こそ可能/不可能の交換だが、にも拘らず強調と留保を抜き「明確」な区別を見るのが氏の議論である。

幾つかの注記が必要である。まず、本書の元となる論文にこの箇所はない。「とりわけ第一章は書き下ろしに近い」(336頁)。次に、この削除に関し、故意/過失、意識/無意識を決定することは最終的にはできない(不可解さの所以である)。したがって本論では著者の意志を前提する類の用語は可能な限り用いない。次に、この削除に対する学問的厳密さの観点からの非難は本論の目的ではない。最後に、これが〈いかに読むか〉の回答だが、本論では著者の意図を括弧に入れ、非難よりむしろ、ここでの氏の所作と論理的に整合的と言える本書全体の構成に着目する。「明確に」ではなくともある「あいだ」と「」たりにおいてデリダが設ける区別に対し、本書は、「明確に」できず決定不可能なこの差異を決定するものとして読める。一種の思考実験として、留保つきの区別を敢えて「明確に」し「形式」化する(73頁, passim)本書の論理的構成について、可能/不可能の交換の観点から読むといかなる問題が立ち上がるか、が本論の関心である。


そこからいかなる問題が立ち上がるか。「明確」な区別の決定の上に、終章にまで及ぶ上述の様々な区別の積み重ねが可能となり、郵便的脱構築が「予告」(334頁)された。しかし積み重ねの末、「本書は、予告された問いの答えに到達しない」(同頁)。システムから逃れる郵便を、しかしあくまで「デリダの『郵便』」として論じる限りで、その議論は、未だ「デリダ派的な」、要するに〈デリダの思考〉というデリダ的システム内における郵便の議論に留まる(335頁)からである。

ここに可能/不可能の交換がある。ある区別の決定により郵便的脱構築への積み重ねの理路が〈可能〉なものとして「予告」されるが、同じ決定が郵便的脱構築をその区別に服せしめ、システム内に留め、それへの「到達」を〈不可能〉にするからだ。そして予告と未到達(到達可能/不可能)が同じ決定において交換されるのは、ある〈あいだ〉に留まる時のみである(そこに留まらなければ到達済みである)。つねに〈あいだ〉に留まればこそ、予告は未到達ともなり、また後者は前者ともなる。削除された強調と留保が単なる「あいだ」と「隔て」以上の何かを意味するためであったなら、この可能/不可能の交換こそがそれである。

郵便的脱構築へ到達不可能にする決定によってのみそれが予告可能になるならば、接近するためには決定をそのつど別様に反復するしかない。氏の理路が様々な区別の積み重ねである所以であり、随所で枠組みの変更の必要性を説く所以である(68、73、94、110、129、137、148、153、165、175、189、194頁。多数ある第四章は割愛 ※4)。確かにこれは氏自身が郵便と区別した否定神学的所作に似る。デリダはこう書いている。「我々は差延がそれでないところのもの全てを、つまり全てを、標記することへと導かれるだろう」 ※5。しかし決定(差異の標記)の別様な反復しか道はないなら、否定神学的所作は(氏の議論に反して)この反復の側ではなく、これを否定神学と結論づけて反復を止め、差異をシステム内に留めること自体の方である。他方、決定(差異の表記)の別様な反復こそは否定神学からの脱出の道であり、だからこそ氏自身が様々な区別を積み重ね枠組みを変更し続けた。

しかし「この仕事は〔…〕打ち切られ」、本書は「突然ながら」終わる(335頁)。これに関し、ある解釈にしたがえば、氏は一方で本書の最後まで否定神学的であり、他方で最後まで否定神学への抵抗を止めなかったことになる。なぜなら、一方で積み重ねた決定(差異の標記)を「デリダ派的」と結論づけて反復を止めたからであり、他方でデリダ研究から身を引いたと公言し、それによりデリダの名そのものに抹消線を引き、その名そのものとの差異の標記を行い、その後も知的営為を継続しているからである。この解釈は、デリダの名の放棄さえもデリダ的差異であるとの前提に基づく。その前提を、デリダの名を冠しないあらゆる場や人々の決定を〈デリダ的〉という名のシステム内に留める否定神学と見るか、あるいはデリダの名に固執する脱構築研究をその名のシステムの外に開くある差異の思考と見るか、この問題が本書の「打ち切」りに賭けられている。

ところで、郵便的脱構築が決定(差異の標記)によってのみ予告可能となるなら、複数性も同様である。ときにデリダのテクストでは、複数性がある語の複数形によってではなく、単数性との差異によって指示され、”plus d’un”、”plus qu’un”(一以上、一つならず)などと書かれる(例えば、『弔鐘』、『他者の単一言語使用』、『死を与える』 ※6)。郵便的脱構築の複数性を形式化するために氏が反復した、複数的脱構築と単数的それとの決定(差異の標記)は、単数性との差異により複数性を指示するデリダの所作に忠実である。しかし単数でないものとして複数を指示する以上、ある〈あいだ〉において、この複数性は予告されたままに留まり、到達(数え上げ)不可能である。この反復により議論それ自体を複数化しても、いずれの議論もが〈単数性との差異〉という同じ複数性の形式によるものであると結論づけられる限りは、否定神学的システム内に留められてしまう。そして、同じ複数性の形式(〈単数性との差異〉という形式)からの差異をさらに表記しなければならなくなり、やはり別様な反復は続く。氏が郵便的脱構築を否定神学的脱構築への「抵抗」(152頁、282頁)、「転移」とし、その「動的な〔…〕『終わりなき』」性格を強調し(310-311頁)、やはり次々に議論の枠組みを変更する所以である。


可能/不可能の交換の観点から本書を僅かに扱い、名の抹消線と、単数性との差異における複数性との二つの問題を抽出した。論文の掲載は20年前に開始されたが、少なくとも現在の日本のデリダ研究において、この決定(差異の標記)の反復は未だに別様に続いているように、私には見える。冒頭において言及した「脱構築研究会」は、会の名として「デリダ」を冠しないことを決め、会の紹介文において脱構築を「複数形で継承」するものとし(もっとも複数「形」は複数「性」とは別であるが、http://www.comp.tmu.ac.jp/decon/pg31.html)、その第一回目の研究会ではデリダの言葉「plus d'une langue(ひとつならずの言語/もはやひとつの言語はない)」をめぐり議論がなされた(http://www.comp.tmu.ac.jp/decon/cn6/pg89.html)。「デリダ『固有』のものではありません」という脱構築について、未だデリダの言葉を用いて語る必要があり、〈誰かに固有のものではない〉という形で誰かの名との差異を表記する必要性がある。

氏の著作を上述の観点から読むことで立ち上がる問題とは、本論の限りでは差し当たり、少なくとも日本において20年ほど続く、〈脱構築(「デリダ」でなく)の複数性の/形での継承〉という問題となる(本論で扱えなかった歴史の問題の手がかりの一つはここにあるだろう)。

島田貴史(東京大学)

[脚注]

※1 Jacques Derrida, Force de loi, Galilée, 1994, pp. 20-21.

※2 Ulysse gramophone. Deux mots pour Joyce, Galilée, 1987, p. 47.

※3 Marges – de la philosophie, Minuit, 1972, p. 376.

※4 立ち入って議論することはできないが、ここではテクストの空間性ないし物質性が問題となっている。そのつど別様に反復されるこの決定は、脱構築を郵便的/存在論的と名づける大きな議論の枠組みのみに限定されず、上述の積み重ねをとおして、本書のいたるところに見出される。つまり決定の別様な反復は、もはや以下の様々な変更や改めと区別しえない、すなわち、抽象的命題と具体例との往還、扱うデリダのテクストの変更(「『幾何学の起源』序」、『絵葉書』、『マルクスの亡霊たち』など)、扱う比喩形象の変更(エクリチュール、郵便、幽霊など)、トピックや議論の枠組みの変更(歴史、複数性、言語行為論、不完全性定理、精神分析など)、章や節や段落の改め、そしてこれらの順序や配置や距離の決定、それらのものと区別しえない。そうすると、〈あいだ〉の区別の決定が本書のいたるところで見出される、と述べるだけでは十分ではない。この〈あいだ〉こそが決定、往復、変更、改めの全てにその場を与え、テクストの空間性ないし物質性を構成するからだ。テクストのうちに〈あいだ〉が見出されるのではなく、〈あいだ〉が空間ないし物質としてのテクストを構成する。空間性ないし物質性の問題はここで、主客の問題に触れている、すなわち、決定がある区別を設けることで〈あいだ〉を生むのか、逆に〈あいだ〉が決定を生むのか、また思考が何かを差異づけるのか、逆に差異が思考に差異づけさせるのか、そうした問題に触れている。前述したように、強調と留保の削除に関し著者の意志を問題とすることを本書は控えているため、この問題に立ち入ることはできない。

※5 Marges…, p. 6.

※6 Glas, Galilée, 1974 ; Monolinguisme de l’autre – ou la prothèse d’origine, Galilée, 1996 ; Donner la mort, Galilée, 1999.