第9回研究発表集会報告 研究発表2

第9回研究発表集会報告:研究発表2|報告:佐藤良明

2014年11月8日(土) 12:00-14:30
新潟大学五十嵐キャンパス 総合教育研究棟 F275教室

研究発表2

声と文字──ゲオルゲ・クライスの符牒
弘田龍(一橋大学)

パーシヴァル・ローエルとフランク・ノリス──世紀転換期米国における科学、ロマンス、およびフロンティアの複合的表象の検討
入江哲朗(東京大学)

W. G. ゼーバルト『アウステルリッツ』『土星の環』における視覚イメージ
鈴木賢子(東京藝術大学)

フィリップ・メランヒトンの「夢解釈」論
下山大助(京都大学)

【コメンテーター/司会】佐藤良明

小説や詩を戯曲の文字テクストを対象とする文学研究から、より広いパースペクティヴに立った文学研究への転換が、当学会の存立意義に絡むとするなら、当パネルでの四氏の発表は、それぞれのやり方で、視覚とイメージの世界に思考を開き、表象文化論的文学研究の有様を例示するものだったと言えるだろう。

弘田龍さんは、ドイツ詩人シュテファン・ゲオルゲ(1868-1933)の詩が「ゲオルゲ・クライス」と呼ばれるサークルの閉じた輪の中で、暗誦された声として朗読されることの意味を問う。ローベルト・ベーリンガーの論文「詩の朗読について」(1911)を傍証として、当時のドイツ青年運動との関連に注意を促す。すなわち、詩に内在する法則をできるだけ純粋な形で引き出し、朗読者の個性による「ぶれ」を排除することが重視されたのだ、と。しかし、ならば、その精髄としての詩を媒体する文字を自ら個性化することに、ゲオルゲはなぜ拘ったのか。発表では、「ゲオルゲ文字」に見られる、区切りの記号に注目して、その特異で擬古的な形状は、伝達のための手段ではなく、その形状の細部それ自体が、秘密圏域における符牒としての、いわば目的であった、との考えが述べられた。

ほぼ同時代のアメリカをフィールドとして、好対照をなす二人の表現者の、背後に潜む同質性をあぶりだすというのが、入江哲朗さんの試みである。アメリカの自然主義をめぐる、リチャード・チェイス(『アメリカ小説とその伝統』1957)以来の理解が〈東部の高尚な伝統〉対〈西部の無骨な語り〉の二分法に依拠したままになっているところから脱却し、「世紀転換期米国の思想史の立体的に把捉する」こと。そのために、まずフランク・ノリス(1870-1902)の『オクトパス』(1901)で中心的な役割を担う「小麦」のイメージに「科学とロマンスとフロンティアという三つの理念が同時に仮託されている」点を挙げ、次に、同時代の東部の名家に属するパージヴァル・ローエルの『火星』(1895)および『火星とその運河』(1906)のテクストを重ね合わせる。科学的言説による批判にさらされながらも、「私は見た」という事実をもって、広範な読者層をフロンティアのロマンスへ導いたローエルの仕事には時代の精神が刻印されていて、それがウェルズの『宇宙戦争』(1898)や、バローズの『火星のプリンセス』(1911)に繋がっていったとする入江さんの思考はきわめて広範。発表の末尾では、C. S. パースや、H. P. ラヴクラフトの名も挙がって、世紀末時代研究の射程の広さをうかがわせた。

鈴木賢子さんの分析対象は、ドイツ(イギリス在住)の現代作家W. G. ゼーバルト(1944-2001)の遺作『アウステルリッツ』(2001)の、図版つきのテクストである。図版は何のキャプションもなく、多くは「時空をただよう映像の屑」のようであり、フィルムのVHS版の静止画像をJPEGに落としたプリントアウトを写真撮影するなど、何重にも解像度を劣化させた図版を含む。そうした操作によって、シャイン(光、現れ)が映り込んだ流体写真のような効果を持つものもある。それらの諸画像と、文字テクストによる物語(ユダヤ人建築家アウステルリッツの、幼少時のナチスによる移送の、抹消されていた記憶の再浮上を扱う)は、どのような布置関係をなすか。鈴木さんは、像に映り込む日常を破る「反イメージ的なもの」──表層を乱して現れ出る何者かの痕跡──に注目する。虚構の主人公のドラウマに寄り添いながらこれらのイメージに触れる読者は、入れ子状に沈殿している歴史の無意識的記憶、無数の匿名の記憶を帯電させていく、と。

最後に、宗教改革運動におけるルターの盟友フィリップ・メランヒトン(1497-1560)の夢論についての、下山大助さんの研究発表があった。扱うテクストはアルテミドロスの『夢の書』(2世紀)のドイツ語訳に付した小論と、それに先立つ著書『魂論』、書簡集であり、古典的夢理論としてマクロビウスとアリストテレスの考えが参照される。メランヒトンは、独自の「夢の四分法」を主張し、(天体由来の予知的な夢、神に由来する夢、サタン/悪魔に由来する夢、に加え)身体(体液)に由来する夢の領域を強調したが、下山さんはその意味を歴史的に位置づけることを試みている。結論としては、夢という不透明な自然現象を透明化する解読が、ふたたび不透明な言説空間へとつながっていくようすを分析することの、思想史研究における意義が語られた。

フロアからの質問に対して、一般にプロテスタントはカトリックに比べて聖画に対して禁欲的だったのは事実としても、イメージ表象一般に対して否定的であったとは断言できないとの考えが示された。宗教体験における神との交わりとしての幻視と、睡眠時との夢との間の線引きも、研究上の課題であるという点も確認された。1700年代後半に夢に関する本の出版ラッシュが続いたが、そこでは心の機能を探ることが問題だった、メランヒトンの時代には、何のために夢が論じられたのかを問う質問も出た。

ゲオルゲに関しては世紀転換期のドイツ・サークル運動の状況一般に関しての質問があり、それらがナチス運動に回収されたという理解で正しいのかどうか検証の余地があるという回答が示された。ゼーベルトに関しては、使用された画像とその処理方法を実証的に調査する方法の質問があった。最後に、近代心性を開拓するルネサンス期の研究者である下山さんから、入江さんによるアメリカのフロンティア思潮の研究に対する共感の発言があり、専門横断的なパネルにふわしい幕引きとなった。

佐藤良明

【発表概要】

声と文字──ゲオルゲ・クライスの符牒
弘田 龍(一橋大学)

20世紀初頭、詩人シュテファン・ゲオルゲは自身を取り巻く若者によって形成されたサークル、いわゆる「ゲオルゲ・クライス」においてしばしば詩の朗読を行っていた。このこと自体はヨーロッパにおいて珍しいことではないが、ゲオルゲ・クライスの「詩」の朗読において特徴的なのはそれがしばしば「暗誦」という形態を取っていたということである。「暗誦 Hersagen」とは語義通りに見れば「向こう側からこちら側へともたらされる」何かしらの言葉であり、である以上常に他者の存在を必要とし、そうした言葉の流通の仕方自体が既にクライスという秘教集団における隠された交流を暗示するものであった。このような文字媒体を参照することのないいわば一種純粋な「声」としての詩の朗読を弟子たちに課す一方で、ゲオルゲはおのれの詩集を極めて凝った装丁・造本・活字のもとマテリアルなものとして作り上げることに並々ならぬ情熱を注いでおり、その執心は彼をして「ゲオルゲ文字」と呼ばれる独自のフォントを開発させるほどであった。本発表ではこうした詩人の詩作品におけるマテリアルな存在としての書物・文字と、それを参照しないで発せられることを強いられていたという声との一見いささかアンバランスにも思える関係に着目し、詩作品それ自体とそれを取り巻く「クライス」という世紀転換期において生じていた現象との連関について探ってゆきたい。

パーシヴァル・ローエルとフランク・ノリス──世紀転換期米国における科学、ロマンス、およびフロンティアの複合的表象の検討
入江哲朗(東京大学)

19世紀から20世紀にかけての世紀転換期において、米国は巨大な変動を経験した。この時代に注目する研究者たちは、たとえば急速な産業化に翻弄される知識階級の苦闘のなかに反近代的な抵抗の姿勢を見出したり、あるいは1890年代に誕生したアメリカ自然主義文学のなかから消費社会の黎明を記録する資本主義的ディスクールの産声を聞き取ったりして、変動の諸側面の解明に努めつづけてきた。本発表が主題とするふたりの人物のうち、ボストンの上流階級に生まれ東洋旅行家や天文学者として文名を挙げたパーシヴァル・ローエルは前者の側面の一事例であるとしばしば見なされ、ゾラの影響のもとで『マクティーグ』などの自然主義的作品を著したフランク・ノリスはまさしく後者の側面を代表する人物であると広く考えられている。
本発表は、ふたりを対極の位置に置くこうした図式を批判し、両者の思想的親近性に注意を促す。すなわち、自ら設置した天文台での観測をもとに描いた火星の「運河」のイメージを提示したことで多くの読者に地球外生命への想像力を植えつけたローエルと、現実を背後から支配する科学的法則の存在を暴き出す自然主義作家はリアリズムではなくロマン主義の嫡子であると信じながら西部の物語を書いたノリスとに共通して見られる、科学、ロマンス、およびフロンティアの複合的表象を検討することによって、世紀転換期米国の思想史に新たな光を当てることを試みる。

W. G. ゼーバルト『アウステルリッツ』『土星の環』における視覚イメージ
鈴木賢子(東京藝術大学)

W. G. ゼーバルトの散文フィクション作品の版面には、新聞や雑誌などの印刷物に由来する画像と、紙焼き写真を再撮影しただけの画像が、キャプションなしで分け隔てなく並んでいる。これらの視覚イメージについては、写真という媒体を軸にして議論されることが多かった。本発表では、ゼーバルト作品における多くの図版が印刷物から取られていることに着目して議論を展開する。まず、従来不明な点の多かった画像の出典ならび処理方法について、これまでの調査で分かったことを報告する。次いで比較項として、ゲルハルト・リヒターの《アトラス》についてのB. H. D. ブークローの議論を参照する。《アトラス》の初期パネルには印刷物由来の画像が多く含まれるが、写真論をベースに論じられたブークローの議論には或るバイアスがかかっていると思われる。さらに、以上より引きだされた論点に応じて、ゼーバルト作品において視覚イメージがどのように働いているのか考察する。たとえばゼーバルトの『アウステルリッツ』(2001)では、或る特定のテーマ系列に包摂されるような視覚イメージが反復するが、調査の結果、その反復を形成している画像の多くは印刷物に由来することが判明した。これらの画像は転写を繰り返してどんどん劣化しているのだが、ゼーバルトはそうした劣化を排除せずむしろ入れ子のように知覚的に提示している。結論として、ゼーバルトによる画像の選択とプロセスが、歴史叙述の可能性と視覚表象の問題との密接な絡み合いから導出された方法であるということを論証する。

フィリップ・メランヒトンの「夢解釈」論
下山大助(京都大学)

古今東西に見られる人間の社会的営為としての様々な「卜占・予言」の形態の中で、「夢占い」という形態は、すでに人間の精神・身体により創り出されたイメージや言葉を「解釈」しようとする点で、他とは非常に異なっている。というのも、人は夢を解釈する前に、すでに夢によって解釈されているからであり、いわゆる古来の「夢解釈」とは、夢に現れるイメージや言葉がいかに「夢によって解釈されている」かを言語化することにほかならなかったからである。それはすでに「解釈の解釈」を孕んでいた。宗教改革者フィリップ・メランヒトンは、16世紀ドイツで出版されたアルテミドロス『夢の書』のドイツ語訳に付された小論において、自身の「夢」解釈理論を展開しており、そこで、中世を通して大きな影響力をもったマクロビウスやアウグスティヌスによる夢の分類論を退け、夢およびその解釈の自然哲学的・キリスト教的な再定式化を図っている。新プラトン主義的な「夢解釈」が、星辰の現れ・動きや身体現象、夢に現れるイメージや言葉を不透明な表面として措定し、その裏に意味を見出そうとしたのに対し、メランヒトンは、ダンテにも通ずるキリスト教的な意味の透明性を追求しつつ、自然現象そのものの不透明性を確保しようとする。これまで、メランコリー論や占星術を巡る議論において多く言及されてきたメランヒトンを、「夢」の理論の系譜という文脈から捉え直すことが本発表の目的である。