研究ノート 福田 貴成

〈在る〉ことの変容
──“SEIGEN ONO Plus” ライヴの残響のなかから
福田 貴成

薄明をざわめかせていた目に見えぬ鳥たちの声はいつしか静寂へと消え去り、次なる出来事を待機するかのような沈黙の領する空間へと、チャランゴの複数の弦の響きが、そっと放たれてゆく。その響きは、あたかも微かな震えそのものが目に視えてそこに〈在る〉かのように、明瞭な航跡を描いて澄明な静寂の空間を渡ってゆく。振動の減衰がふたたび静寂のもとへと消え入ったかと思うや、ふたたび爪弾かれた弦の響きが、シンプルな和音を構成しながら空間にたなびく。そして、弾かれた響きのひとつひとつが、零れおちる滴のしたたりのように、スローモーションで虚空を流れてゆく。

表象文化論学会第9回大会初日のライヴ・イヴェント「SEIGEN ONO Plus 2014 featuring NAO TAKEUCHI and JYOJI SAWADA」はこのように幕を開けた。チャランゴを爪弾くのはミュージシャン、オノセイゲン氏。静寂に耳を澄ますオーディエンスたちと呼吸をあわせつつ、そしてオーディエンスとは比較にならない耳のレゾリューションをもって、みずからが放った音たちの行方を追い、その行く果てを聴き届けながら、清新な響きが、その指先から次々と紡がれてゆく。それはあたかもきらめく露のごときヴィジョンを纏って、聴衆の眼前に、或る実在の手触りをもって現れ、そして消えていった。

音が〈視え〉〈触れられる〉かのように、その場に立ち現れるということ。音が、そこに〈在る〉ということ。しかし音が〈在る〉とは、一体どういうことなのか。勿論、演奏者たるオノ氏はその場に実在し、また弦に〈触れる〉という行為がそこに在るのだから、一見これはあたりまえの事態のように感じられるかもしれぬ。しかし、その音が〈視え〉〈触れられる〉ということは、そうした物理的・視覚的現前とは、なかば無関係に生じているとは言えまいか。このライヴにおいて聴衆の鼓膜へと届けられたのは、エンジニアとしてのオノ氏が事前に入念なセッティングを施したPAシステム──ステージを取り囲むように設置された富士通テン(株)のスピーカー・システム「イクリプス」──から発せられた物理的振動の束であり、またその振動とは、繊細な弦の震えを受け止めて電気信号へと移し替えるマイクロフォン、そしてその電気信号をビット列へと置換しプロセッシングするディジタル・リヴァーブなど、アナログ/ディジタル双方のテクノロジカルな処理機構を経たのちにつくり出されたものに他ならない(※1)。『聞こえくる過去 The Audible Past』におけるジョナサン・スターンの言葉を借りるならば(※2)、それは或る特定の「トランスデュース=変換」と不可分のものとしてその場に在らしめられたものであり、その限りにおいて、重層化されたテクノロジーのもたらす間接性こそが、その存在の基盤を構成しているのである。まさにそこに〈在る〉という直接的現前のイリュージョンが、間接性によって支えられているということ。非媒介性のフィクションが、媒介性の洗練によってこそもたらされているということ。──ふるえる音たちのなまなましい現前に不動のまま「目を見張り」ながら、私がそこで思い出していたのは、かつてオノ氏が発表した名盤『Montreux 93/94』(セイゲン・オノ・アンサンブル名義、1994年)をはじめて聴いた際に不意に襲われた、忘れ難い或るなまなましさの感覚である。

『Montreux 93/94』は、そのタイトルの示すとおり、オノ氏率いるセイゲン・オノ・アンサンブルが1993年と94年にモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに参加した際の演奏を記録したライヴ・アルバムである(※3)。あたかも一夜の響宴のごとくに編まれたこの一時間強にわたる音源は、実際には、一年の時を隔てて、しかも異なる会場において披露されたライヴの録音を一編のアルバムへと纏め直したものであり、その点においても「現前のイリュージョン」と言うべき経験へと聴く者をいざなってくれる。オノ氏自身の言葉に従うならば、ここには、レコーディングという技術によって人類史へともたらされた音の「タイムマシン」経験と、編集行為による「時間軸の操作」とが、きわめて高度に撚り合わされ、洗練されたかたちで実現されていると言ってよい。しかし、私の記憶にいまも強く残っているのは、より些細な、しかし決定的な音響のディテールからもたらされた聴覚的印象である。

ライヴの記録という性格上、このアルバムには歓声や拍手といったオーディエンスの反応が当然のごとく収録されており、それがいわばライヴ・アルバムとしての一貫性を聴覚的に保証しているのだが、5曲目の「Vida Boa」へと差し掛かる手前、アンサンブルとオーディエンスとの音響的バランスは、その様相に大きな変化を生じ始める。その場に居合わせた聴衆たちのざわめきが──いや、それが「その場」のざわめきだと、一体何が保証していると言うのか──Dメジャーを基調とするアンサンブルのただ中へと、じわじわと、しかしあたりまえのように浸潤してくる。そこ此処で交わされる男女のさまざまな呼び声は、たおやかな演奏といつしか融け合い、あたかも音楽的出来事の一部を構成するかのように、チェロやソプラノサックス、トロンボーンなどの織りなすやわらかな響きと絡み合いながら、二つのスピーカーのあいだにひろがる空間に、輪郭をもって立ち現れる。なにか特別な音響的出来事が起こったような気配などいっさい感ずることのないまま、聴取者は、最前とは異なる仮想的な聴取点へと拉し去られてしまうのである。

勿論、このような音響構築をビートルズ以降の「トータル・アルバム」のイデオロギーと関連づけて語ることも可能であろうし、或いはミュジック・コンクレートからポピュラー音楽における具体音使用の系譜のなかで論ずることも可能であろう。さらには「沈黙のざわめき」といった文脈に位置づけることもとうぜん容易である。しかし、そうした賢しらな「読み」を斥けるような、穏やかでありながら同時に魔術的な音の出来事が、この録音からは立ち昇っているように思われる。それはちょうど、あのライヴの時空に立ち現れたのと相通ずる、〈在る〉ことそれ自体の魅惑とでもいうべきものであり、またその魅惑をめぐる謎である。視覚的現前を欠落させたまま、そのざわめきは明瞭に〈視え〉、あたかも〈触れられる〉かのように出来する。そのなまなましさに虚心に〈触れ〉ること、その悦び。ここにもまた〈直接〉的現前のイリュージョンが、ライヴとは別様のトランスデュースののちに、すなわち〈間接〉性の結果として、なまなましく出来している。

この直接性のイリュージョンを、音の、そして声の纏う幻影としての〈身体〉と言い直してみるならば、それはかつてロラン・バルトが音楽聴取の構造的脱臼の比喩として用いたあの〈肌理grain〉なる語の指し示すところと通じていることは明白だろう。「歌う声における身体」、「演奏する肢体における身体」としての音響の肌理(※4)。バルトはそれを、生身の肉体の物理的・視覚的現前との結びつきにおいてこそ出来するものとして記述し、また録音の聴取においては消滅するものと見做していた。しかし、夙に細川周平も指摘するように、生身の肉体の不在においてこそ立ち現れる音の身体・声の身体というものもまたあり得よう。歌う身体、演奏する身体、そして──モントルーの録音で場をざわめかせていた数々の声のように──意図せざるノイズを立てる無数の身体たちの喜悦。視覚的現前の不在によってこそ高められる〈在る〉ことの強度。現象する音響の表層に、肉のほむらをまざまざと触知すること。

テクノロジカルな媒介の挿入、或いはトランスデュースの重層化によってわたしたちの聴取経験へともたらされたのは、単なるフィデリティ=忠実性の漸進的昂進という事態ではない。それは、起源の音の出来事をレフェランとして指し示しながらも、同時に、媒介性そのもののうちに別様の〈身体〉を住まわせるという倒錯した出来事なのだ。そして、音響のトランスデュースをめぐる歴史とは──それが録音の場合であれライヴ空間でのPAの場合であれ──この倒錯した身体性を聴覚によって触知することの、そしてその触知性の漸次的変容の歴史なのである。19世紀の後半、媒質の振動を感知した尖筆が錫箔上に〈直接〉描き出すエクリチュールとして開始された「録音再生」というトランスデュースは、その後の歴史において──電気録音の導入やアナログからディジタルへの移行に明白なように──記録の水準における〈直接〉性を縮減するとともに、聴取の水準における〈直接〉性のイリュージョンを増大させていった。重層化する間接性のうちに幻影としての直接性を宿らせ、それを仮構のフィデリティとして聴取者へと差し出すこと。それは、「音が〈在る〉」ことをめぐる認識の変容と通底している。音が〈在る〉こと、それは表層における自明性の背後に、褶曲する複数の媒介性の地層を抱えているのである。

あの夕刻、薄明かりのホールにゆるやかに舞った音のフラグメントは、その〈直接〉的な在り様のうちに、どのような媒介性の層を畳みこんでいたのであろうか。きわめて高度なインパルス応答、そして音響の時間領域における再現性を身上とする「イクリプス」というスピーカーの選択には(※5)、マルチウェイ・スピーカーが前提とする周波数帯域ごとのユニットの分割、そしてそのことが含意する発音体の空間的分散、および時間領域での「原音」からの乖離を最小限に止めようとする意図が明確に存在していよう。さらに言えば、そこには、マルチウェイ・スピーカーという存在様態がこれまで長らく含意してきた聴取主体としてのわれわれの像、すなわち空間的に分散した発音体(スピーカー・ユニット)からの振動すらもレフェランとの同一性のもとに束ねて聴取してしまうような、「誤認する生得的能力」(ジョナサン・クレーリー)を備えた19世紀的な聴取主体像(※6)からの根本的な脱却すらも看取することが出来るように思われる。音がそこに〈在る〉ことの変容とは、すなわち媒介の条件の変容であり、それに伴う「フィデリティ=忠実性」認識の変容であり、そしてわれわれという一人称複数の「聴取する主体」に関する認識の変容の謂いである。その変容の様相を注視し──或いは傾聴し──そのなかに滞留する過去の主体像を見定め、聴取する主体の現在性を構成する複数の層のそれぞれを明確に定位してゆくこと。コンシューマー・レヴェルにおけるハイ・レゾリューション音源の普及など、聴覚的な媒介の条件が急速に変わりつつある今日、そうした作業は、「聴覚性の現在」の一端を明らかにすることへと、さらに言えば、感覚することの現在をめぐる層序分析へと繋がっているものと私は考えている。

福田 貴成(中部大学)

[脚注]

※1 ライヴ当日のPAシステムについては、藤本健氏による以下のレポートに詳しい。「藤本健のDigital Audio Laboratory オノセイゲン氏が語る「レコーディングの今」と「ハイレゾ」」 http://av.watch.impress.co.jp/docs/series/dal/20140728_659769.html

※2 Jonathan Sterne, The Audible Past, Duke University Press, 2003.

※3 かつてCDで発売されていたこの音源は現在、以下のサイトにおいてハイ・レゾリューション音源としてダウンロード購入することが可能である。 http://www.e-onkyo.com/music/album/sdsd10043

※4 ロラン・バルト「声のきめ」『第三の意味』沢崎浩平訳、みすず書房、1984年、197頁。

※5 富士通テン(株)「イクリプス」の特徴的な設計思想については以下のメーカー・サイトを参照のこと。 http://www.eclipse-td.com

※6 ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜 視覚空間の変容とモダニティ』遠藤知巳訳、十月社、1997年、137頁。