小特集 インタビュー ポスト・ミュージアム時代の近代美術館

ポスト・ミュージアム時代の近代美術館|三輪健仁(東京国立近代美術館 主任研究員)|聞き手:池野絢子、江口正登|記事構成:江口正登

『ドキュメント|14の夕べ』

── 「14の夕べ」はドキュメント・ブック(『ドキュメント|14の夕べ』)も非常に面白いですね。いろいろと仕掛けの多い、かなり作り込まれたものとなっていると思うのですが、この本に込めたコンセプトについてもおうかがいできればと思います。たとえば、こういう内容をwebなどでやることもできたと思うのですが、特に「本」という形式が選ばれたのはどういう理由によるのでしょうか?

三輪:まず、参照項として1970年前後の状況があったというのはやはり大きいです。印刷物が最も面白い可能性を持っていた時期のひとつだと思うんですね。そして、印刷物とはまさしくひとつの物質なわけですが、この物質的であることは私にとってはとても重要です。
(本に巻かれたカバーの内側に収められた紙片を取り出して)この本にはこういうピンク色の小さな紙の束が含み込まれているんですが、これはもともと「14の夕べ」の告知およびプログラムとして配っていたもので、各出演者にパフォーマンス以前に作成してもらったスコアが載っています。これは書籍を作るということをすでに念頭に置きつつ作られたものです。本のなかは、出演者ごとに順番に並べるかたちでレイアウトされているのですが、それぞれの扉ページの部分に、このピンク色の紙片自体が、まったく同じ寸法でもう一回刷られています。なので、この紙片の印刷物は、それぞれの扉ページ上にあらためて印刷された、いわば「印刷物の印刷物」と、ピタリと重ね合わせることができます。結果的にはこの紙片はカバーの部分にまとめて封入することになりましたが、もともとは各扉ページにはさみ込んだ状態で配本しようと思っていました。流通の過程で抜け落ちてしまうから駄目だということになったのですが(笑)。でもこれ、はさむとインデックスみたいに機能して効果としてなかなか面白いので、購入された方はぜひやってみてほしいです。
この本は判型がかなり小さくて、刊行後にそのことで批判を受けたりしました。でも、これももともとこの紙片から必然的に導き出された判型です。この紙片より一回りだけ大きいものにするという。つまり、印刷物をもう一度印刷するという自己言及的な試みに加えて、一回り大きいので周囲に余白が発生する。この余白は普通キャプションなど事後的な記述が置かれる領域で、余白というのはどういう性質を帯びた場所なのかということを考えるきっかけにしたいとも思いました。こういったことを考えるのは、物理的な形状を持った書籍だからこそ可能になるのだと思います。
それと、このカバーの内側ですけれど、ここだけインクがすごい盛ってあります。で、ここと接することになる対向ページに「DOCUMENTS 14 EVENINGS」っていう文字がうっすら浮き出てきてますよね。普通、これだけインクを盛ったら、対向ページに色が移らないようにニスをかけるんですけれど、このカバーの内側だけはかかっていない。だから、カバーと対向ページが、読むという行為を繰り返すなかで擦れていくと、だんだんインクが対向ページに転写されて、文字が浮き出てくる。たくさん、真面目に読めば読むほど、文字がどんどんくっきり浮かび上がってくるんですね(笑)。これはデザイナーである森大志郎さんのアイディアで、やはり紙と紙との接触という、物質的な要素から出発することではじめて出てくるものだと思います。
おっしゃられたようにこういう記録物は、webを利用した方が網羅性ということからしても、検索の利便性においても、便利な部分はたくさんあると思います。けれど、先ほどから言っているような物質的な表現の場を確保したい、ということがあった。パフォーマンスという出来事自体は、人間の身体が基本になる物質的なものだと思うのですが、その出来事自体は保存されないなかで記録物を作るのであれば、それ自体を別の物質的なもの、つまり書物という別のメディウム上に変換するような意識で残したいなと、それがいちばん大きかったですね。

── パフォーマンスを記録した物質としての本に、読むというパフォーマンスがまた刻印されていくということですね。

三輪:そうですね。それは内容から形式が決定されるという言い方もできると思います。もうひとつ、先ほど言ったように、この本、出演者からもけっこう批判を受けたりしたのですが…、そのことはちょっと面白いな、というか、真面目に検討すべき問題だと思っています。
この本にはいろいろな残存物、「残りのもの」を収録しているわけですが、当然ページ数の制限もあって、「残りのもの」すべては載せられない。だからこの本も断片でしかないというのはある。とはいえ、たとえばそれぞれのアーティストに20ページ割り当てたとして、アーティスト本人の意向だけで作ったら、こういうふうには構成しないと思うんです。アーティストからすると、本当に見せたい部分以外は人目にさらしたくないという意識が当然あると思うのですが、この本にはその考え方からすると無駄に思われるだろうものもかなり入っています。
たとえば記録写真も、ただでさえ判型が小さいのですから、こういうやり方(見開きの2ページにつき、30枚以上の記録写真が掲載されている)ではなくて、1枚大きな写真を載せるページをもっとたくさん作りたいという人も当然いるんですけれど、こちらの判断ですべてこのフォーマットで編集しています。これはもしかしたら大失敗なのかもしれないと思うことも確かにあります。決して編集していないわけではないけれど、情報が過剰にありすぎるようにも見えるかもしれない。記録というものが、出来事そのものであるわけはないのですけれど、それを読んだときにどうすれば最も刺激的に感じられるか、読者の想像力を働かせられるかと考えると、情報があればあるだけ良いというわけではないかもしれないですよね。小さな写真が大量にあるよりもキメのショットが1枚あればそれで十分なのだという考えもありうる。けれど、この本自体はすごく長いスパンで考えていて、大げさに言えば50年後とか100年後に役に立つ可能性もあるわけです。いつ誰が、どういう興味で、何を必要としてこの本を手に取るかというのはわからない。キメの一枚よりも、多様なカットから得られる情報が、活き活きと行われたパフォーマンスを想像させることもありうると思う。そこで、取捨選択を一切しないというのは不可能にせよ、なるべくしないというアプローチをこの本では取りました。これはこの本の根本にある思想として、けっこう重要な点だと思っています。
しかし、そうした編集方針に対して、出演者の人たちから「分かりにくい、読みにくい」と言われたりもします。書籍に対して、読みやすさ、分かりやすさを求められることは、特に美術館の場合、すごく多いんです。東京国立近代美術館では年配の鑑賞者の方も多いので、カタログや展示室のキャプションの文字が小さいというお叱りはいつもたくさんいただきます。でもたとえば、出演者の人たちにそういうことを指摘されると、少し意地の悪い言い方ですが、じゃああなたの作品はどれだけ分かりやすいですか、ということを問うてみたい気持ちもあったりします。あるいは、「分かりやすさ」にはさまざまなレベルがあって、書籍の制作プロセスや流通プロセスといった観点もきちんと踏まえて考えてみると、「分かりやすさ」ということに対してもっと別のレベルからアプローチできるのではないかと思います。当然ながら、「分かりやすさ」というのはたとえば文字の大きさに一元化されるようなものではありません。
また、さきほど記録と表現は簡単に分けられないのではないかという話をしました。この本もドキュメント、つまり記録物とうたっていますが、同時に表現としての質も持ちうるものだという意識があります。それはもちろん、キュレーターやデザイナーの自己表現などという意味ではまったくありません。この表現としての質みたいなことを考えた場合に、たとえば判型や文字の大きさというレベルでの「分かりやすさ」みたいなものは、それが考慮すべき要件であることは当然として、では何を措いてもまず最優先されるべきことなのか。紙にインクが載るということや、紙が束になって綴じられているということ、そうした物質的な事態のなかで、文字や判型が大きいという「分かりやすさ」とは、別の基準がまず優先されるという判断がありうるのではないか、そしてその判断によって異なるレベルでの「理解可能性」に開かれる場合があるのではないか。そういうことを問う場にこの本がなれば良いと思います。記録物であるから、オリジナルの出来事と完全に別物であってはいけないにせよ、書籍という形態をとるからこそ実現できるような表現が生まれることを期待してこの本を作りました。「ヴィデオを待ちながら」展のカタログも森さんがデザインしてくれているのですが、こちらもいま言ったような物質的な性質を持っていることというのは同じですね。
印刷物はいま、なかなか厳しい時代になってきています。でも、私は美術館の展覧会カタログは、絶対になくならないと思っています。ミュージアムショップで電子書籍しか売っていないということには、まあならないだろうと。とすると、美術館は印刷物の最後の砦のひとつだと思うのです。だから、こんなこと言ってはいけないのかもしれませんが、必ずしもたくさん売れる必要はおそらくなくて、書籍という形態でしかできないことを、ある意味贅沢にやり続けるのが重要ではないでしょうか。美術館は印刷物というものを、展覧会と同等ぐらいに重要なものとして考えねばならなくて、単純に造本にお金をかけるというような意味ではなく、書物でできる実験をどれだけ続けられるかが大事かなと思っています。

1234