小特集 インタビュー 「現代美術、保存修復の現在——ミュージアムの内外から

インタビュー「現代美術、保存修復の現在——ミュージアムの内外から|アントニオ・ラーヴァ(修復家・イタリア国際修復機関副会長・ヴェナリア国立修復研究所教授)|聞き手・翻訳:池野絢子、田口かおり|記事構成:池野絢子

付記:ヴィデオ・アート、タイム・ベースド・メディアの保存(※3

アントニオ・ラーヴァ

現代美術には、もう30年以上前からヴィデオ・アートと呼ばれる芸術が存在する。ヴィデオ・アートとは絶え間なく進化するテクノロジーであり、そこには作品を再生するフォーマット、必要な機材、定期的なメンテナンスが含まれる。作品は美術館やプライベート・コレクションに収められ、あるいはインスタレーションのなかに置かれて、電源を入れさえすれば起動し、電気を消せば一時的に停止する。
ナム・ジュン・パイクのような芸術家にとっては、テクノロジーはおよそ十年ごとにアップデートされる。その都度フォーマットは変更され、古いテクノロジーは新しいテクノロジーの支持体として再利用されるのである。
ヴィデオは、磁気テープによってヴィデオ信号が送られる構造になっている。ヴィデオは、ヴィデオ・テープをはじめとして、1960年代から今日にいたるまで様々な展開を呈してきた。ヴィデオ信号が含まれるのは磁気片からなる三つの層であり、それらは摩耗したり傷ついたりすると痕跡が異物として目立ちやすい。つまりは、擦傷によってイメージに関する信号を失った白い線ができてしまうのである。
適正な取り扱いやメンテナンスによって作品の変質は抑えられるが、生理学的な劣化を抑えることはできない。支持体は、ポリエステルやポリウレタン、ポリエチレンテレフタラートといった、現代美術ではおなじみの素材によってできているからだ。現代美術の時間性とは、そうした劣化の早い素材によって成り立つ崩壊の時間なのである。

復元のためにどのような介入を行うべきだろうか。デジタル技術が可能にする専門的な複製をもってすれば、作品を正確に転写(移行)し、むこう十年間にわたって繰り返し再生できるような新しいヴァージョンをアーカイヴ化することができるだろう。磁気テープにコピーする場合、情報は徐々に失われてしまうが、デジタル技術による新しい複製は、世代間で情報の損失がないクローンである。こうした手続きを計画する場合には、およそ10年ごとにフィルムの状態を点検し、劣化した素材をデジタルに移すことで、オリジナルが完全に崩れ去る前に救わねばならない。移行作業に際しては、もし芸術家が生きているならば、二つのモニターを並べて、オリジナルとコピーの状態ができるだけ類似するように計測し、その質を確認してもらう方が良いだろう。

たちまちのうちに老朽化する情報科学の分野では、あるテクノロジーをまるごと捨ててデータを救済するのが慣例である。テープやディスクによっては、そのフォーマットをデコーディングできる特定の機器でしか映写できないこともあるため、こうした場合には、それらは利用できなくなってしまう恐れがある。老朽化した部品を保存しようと絶望的な努力をするよりも、機を見てヴィデオを現在のフォーマットに移行し、オリジナルのシステムがまだ利用できるうちにコピーしてしまう方が、時としてはむしろ良いのである。
オリジナリティを保証するためには、二つの条件を同時に満たすことが必要になる。一つは、出来る限り広範なドキュメンテーションを通じて芸術家が想定していた条件を維持することであり、もう一つは、たとえばインスタレーションにおいて重要な映写構造を保存することである。たとえ色彩や明暗の状態が正しく記憶されていたとしても、機器が上手く設置されていなければ、それは下手に演奏される音楽のようなものだ。
エミュレーションの技術を用いてエフェメラルな要素を保存するための戦略が研究されてきた。この技術のおかげで、すでに消滅したハードウェアに記録された歴史的ヴィデオを起動することができるようになる。
未来のある日、ヴィデオを見るのは私たちにとって奇妙なことになるのかもしれない。ちょうど私たちが、中世の芸術作品のなかに古めかしい動作を見つけ、奇異であると感じるように。

テレビのモニターもまた進歩している。1897年にドイツ人のフェルディナント・ブラウンによって発明された陰極線管(ブラウン管)は、1960年代からテレビに利用されていたが、すでに姿を消しつつある。このテクノロジーは、誕生から100年を超え、もはや古いものとなった。代わりに発展したのが、1997年に発売された超薄型の液晶である。液晶モニターは、ただちにあらゆる既存のモニターに取って代わったが、インスタレーションの美学を損なう結果になった。インスタレーションで使用され続けると、モニターは摩滅し、三年ごとに取り替えられねばならなくなるだろう。液晶モニターは、劣化すると、その組成によってたとえば赤や青の色合いが強くなるといった変色の兆候があらわれる。この現象は、冷陰極管での電子放出が失われてしまうために起こる。また、陰極線管のガラスは、製作者によってプロテクションを調整されていないと、爆発する恐れがある。実際、そうした事態は美術館で複数回生じており、ダイオキシンの放出という被害をもたらした。たとえばデュッセルドルフの美術館では、1990年代に、複数のモニターからなるパイクのインスタレーションのひとつが爆発し、美術館全体の汚染除去作業が必要になった。

今日もなお、伝統的なシステムにもとづいて創作を続ける芸術家たちは、テープを用いた作品を制作している。だが、そうした作品の保存を保証するためには、外観を変形させることなく、いずれはデジタルへ変換せねばならない。とはいえ、そうした芸術は、視覚的方法によっては作品全体の半分しか表現されず、より伝統的な技法によるアナログな修復実践がさらに求められることを考えるだに、問題は深刻である。
たとえば映写機が立てる音は、たとえもはや映写機が物理的には存在しなくても、芸術家自身の意思に配慮し芸術活動の一部とみなさなくてはならないことがままある。無菌的にただ再生されるのではなく、むしろフィルムの経験こそが維持・保存されねばならない。ヴィデオとは彫刻のようなもので、正確に再提示することが難しい装置である。そこで伝統的に重要であったのは、たとえば数分間の白黒フィルムの上映を、暗い場所で立ったまま見るこであり、そこでの経験は、映写機の音とスクリーンに映写される光の束を伴ったものなのである。

大切なのは、芸術的意図を保存することだ。新しい展望を切り開くような作品を存続させようとするとき、この芸術の意図という基準を看過してはならない。芸術家のシリン・ネシャットは、今でもごく簡素な16ミリフィルムで撮影を行い、それをウェブに上げることも映画館で上映することもしない。彼女が望むのは、社会化された空間のなかの彫刻として作品を実現することである。こうしたケースでは、データの移行が作品の意味を縮減してしまいかねない。だが、支持体を変更することを拒めば、作品自体が失われてしまうかもしれない。ヴィデオの情報は一定ではないし、CD-ROMという媒体も不安定なのである。したがって、修復の使命は重大であり、 たとえばポリ酢酸ビニルが変質したときの酸の匂いのように、破壊の症状を何十年かごとに認識することが大切だ。常に素材の完全な代替を求める市場の要求に抗して、作品を救うために、情報を普及させる必要がある。それは、後世に残すことができるかどうかの保証がないまま作品を保存するという挑戦なのだ。他方で、長持ちするものだけを伝世していくことはできない。たとえば未来主義の場合、耐久性のある板絵やカンヴァス画は保存されたが、ルイージ・ルッソロの音楽のようなエフェメラルな作品はほとんどすべてが消滅してしまった。

今日、しばしば重大な問題になるのは、際限なく増えていくもののうちで、何を取っておき、何を捨てるかを決めることだ。一般の人々の好みを尊重するという課題に直面するなか、芸術家たちは、彼ら自身が選択するというよりも、むしろ作品が享受されるにあたって生まれる自然な選別に作品の行く末を任せるようになっている。美術館は、蒐集趣味に奉仕する時代遅れの場所と見られている。その一方で芸術は、より自由な仕方で享受されねばならないだろうし、一般の人々が自由にアクセスできると想定された作品を売り払うことはできない。あらゆる制約は、作品と作品の本来の意図を変えてしまう。もしも私たちがいわゆる壊れやすいものだけを保存しようとするならば、それははじめから負け戦だ。私たちは、芸術家が承諾できないような制限を設けることなく、彼らの意図を検討し、尊重せねばならない。

ヴィデオと並行して、ヴァーチャル映像やホログラムは、高精度の3Dイメージへと進歩している。たとえばトニー・アウスラーの作品では、高精度の量塊を持った映像が無制限の空間に映し出される。
歴史的アヴァンギャルド以後、芸術作品は、改変することのできない完成されたオブジェではもはやなく、芸術家を物理的に巻き込むような時間的・空間的活動を伴ったものになっていった。ルチオ・フォンタナは、1952年の空間絵画についての宣言のなかで、アヴァンギャルドが活用すべき手段をテレビのなかに見出した。1958年以降にはフルクサスやヴォルフ・フォステルが、テレビのコマーシャルだけを用いることがいかに愚鈍かをきっぱりと示すために、セメントの泥によって塗込められたテレビを発表している。 ヴィデオ・アートの創始者ナム・ジュン・パイクは、テレビを利用し、それを現実の複製というアイロニカルで侮蔑的な戯れへと変えてしまう。彼が1963年にブッパータールで開いたイベント——ヴィデオ・アートの最初の展覧会である——では、13台のテレビが一列に並び、変形したイメージが生み出され、音楽と電子映像が干渉しあった。作品の中核をなすのは電子信号の操作である。その操作は、ネオダダ的な、匿名の芸術というメッセージを保っていた。

プラスチック素材のクレス・オルデンバーグ、ダニエル・スペーリやジョン・ケージ、マース・カニンガム、梱包のクリストと時を同じくして、ヴィデオ・アートはナム・ジュン・パイクとともに発展した。パイクは、どんな色彩、かたち、音の電子構成要素でも修正することができるカラーのヴィデオ・シンセサイザーを利用した。その後、1973年にはコンピューター・アニメーションやイメージ・プロセッサーが登場し、リアルタイムにイメージを作り上げることが可能になった。ビル・ヴィオラは、コンピューターとあわせてきわめて精密な器具を用いることで、たとえば砂漠の熱のような未知のものを正確に描き出している。ブルース・ナウマンは、経験を通じて見えないものにかたちを与え、事物を明らかにすることに精力を傾けている。ネット・アートは、コンピューター・グラフィックから発展して1989年に誕生し、94年にはインターネットによって世界規模にまで発展している。インターネットによって、異なる現実のあいだの対話が可能になっているのだ。コミュニケーションの領域は、発信者と受信者の両者を巻き込むような戦略、インタラクティヴィティが持ち込まれたパラレル・ワールドで広がり続けている。それは、様々な言語や人間関係を介した日常世界の変容である。ネット上でのハッキングなどを通じて社会的責務の在り方が問われる一方で、文化的インターメディアとしてのミュージアムもまた、出現している。
それは、多かれ少なかれ永続性を欠いた芸術である。あらゆる有機的素材は傷むが、近代的人工素材はいっそうその速度が早い。さらに、デジタル作品も著作権保護の対象となるので、著作権について考える必要がある。ただし、著作権が発生するのは、概念に対してではなく、オブジェに対してだけである。そのためフィルムやヴィデオ、ラジオは録音・録画が可能であるが、作者みずからがそれを複製することはできないし、同じものを再制作することもできない。 また、もしもある作品がオリジナルの意図を尊重されないままに再制作されたら、芸術家はそれを処分することができる。作品は芸術家の一生ほど長くは持たないのが常だが、著作権によって保護された写真は残る。オリジナルの意図を改変しないためには、たとえ増刷されたものでも、修正してはならない。急速に変化するテクノロジーにとって、複製の分野は重大な問題だ。たとえばオーディオについてのテクノロジーは、ヴィジュアルのそれよりもより早く変化するので、細やかな再構築が必要になる。複製を作成することが、そのまま作品の予防・保存を意味するわけではないのだから、作品は温度、湿度、照明、埃の除去、酸化の軽減、いずれについても理想的な条件で保管される必要がある。色彩は、オリジナルをスキャンしたものに基づいて復元することができる。

修復士は保存にたいして責任を持ち、芸術家は作者としての権利を持つ。両者は、最良の結果を得るために、経験と目的を一つにせねばならない。
このために、芸術に応用されたテクノロジーもまた、他のすべての芸術と同等の芸術的価値を持つのであり、各々に固有の特徴が尊重されるべきだ。芸術家は、作品がどれほどの耐久性を持つか見極めることなく新しい表現の可能性を探求してきた。それ故、私たちは、完全な代替という手段に訴えることを避けて、可能な解決策をみいださなければならない。作品を構成するテクノロジカルな要素は変更可能であるし、変更したとしても作品に美的意味合いを付与してしまうことはない。何故なら、メッセージは作品のコンセプトのなかに含まれており、非物質的なものだからである。
だが、作品の意味は、オリジナルの構成要素とそうした要素の存在とのあいだにあるのであり、非物質的な概念のみにあるのではない。したがって、テクノロジカルな要素を変更すれば、メッセージの一部が欠落した状態の現代的テクノロジーを提示してしまう危険性がある。芸術は存在するために物質を必要とするが、芸術表現における広大な自由は、新しい素材やその特徴についての知識の欠乏をもたらしてしまった。あらゆる装置は、老朽化にともない、情報を複製できる状態を保証するために、全体を代替することになる。オリジナルではない素材が追加されると何が起こるだろうか。オリジナルの複製が可能になるのは、オリジナルの機材との関連性においてのみである。なにがしかが消えてしまうかもしれないが、ドキュメントは残し、現実を偽装しないようにするために、機材の変更について一般の人々に告知せねばならない。

ヴィデオ・アートの保存には、様々なアプローチが存在した。J .イポリットは、これらの作品を音楽のスコアとして考えることを提唱している。解釈=演奏〔interpretazione〕を変えてしまわないように、あらゆる変更は記録されねばならない。それは、作品を伴う情報マニュアルなのである。すべてが機能するのは、インスタレーションのオリジナリティを保証するような完全なドキュメンテーションがあるときだ。だが、そうしたドキュメンテーションがない場合には、変質してしまった作品をコレクションのなかに再展示してしまう危険性がある。
さらには、修復にあたる人物が、作品とそれが制作された時代とのあいだのつながりを考慮せずに劣悪な作業を行うことで、オリジナルの要素についての情報が失われてしまう危険性もある。作品の統一性に干渉しないためには、いかなる真正性の損害も避けなければならない。真正なイリュージョンのみを再創造するために、エミュレーションを見据えた対応が受け入れられねばならない時が来ようとしているのである。アロイス・リーグルがかつて述べたように、オリジナルの意図は多様でありうるし、ある程度は、時代とともに変化したり発展したりするかもしれない。ある作品の唯一のオリジナルの外観は今日のものであり、その他あらゆるものは憶測かもしれないのである。

最後に、芸術作品の音についていくつか指摘しておきたい。エフェメラルな創造の文脈に結びつけられる音の使用は、空間に浸透し、変化させることのできるつかみどころのない要素である。現代の芸術家によって使用される音は、音楽ではないし、記憶に残り何かを想起させるような決まった旋律に従うものではない。むしろそれは、その都度かすかなヴァリエーションを伴って複製される経験であり、それが広がり満ちる空間に結びついている。たとえば芸術家のマックス・ニューハウスがある空間で音を発するとき、その音は、私たちが確かにある場所にいる、という感覚を増大させるような経験によって特徴付けられているのである。

[脚注]

※3 このテクストは、ラーヴァ氏によって本インタビューの参考として特別に寄稿されたものである。

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