小特集 研究ノート 堀切 克洋

ディスコールとしての絵画
――「ヴァン・ゴッホ/アルトー展」(オルセー美術館)から
堀切 克洋

オルセー美術館正面入口付近(著者撮影、2014年4月中旬)
オルセー美術館正面入口付近(著者撮影、2014年4月中旬)

2014年3月11日から7月6日までパリのオルセー美術館で「ヴァン・ゴッホ/アルトー:社会が自殺させた者」という展示が行われている[写真]。「残酷の演劇」の提唱者として知られるアントナン・アルトー(1896-1948)が晩年に著した『ヴァン・ゴッホ:社会が自殺させた者』(1947年)を手引きとして、ゴッホの自画像および風景画、そしてアルトー晩年のデッサンを主として展示するという趣旨である。

アルトーの仕事に関しては、2006年11月から2007年2月にかけてフランス国立図書館で大規模な展覧会が催されたことが記憶に新しく、演劇・映画における俳優・演出家としての「顔」だけでなく、アルトーの遺産管理を一手に引き受けてきたポール・テヴナンが1993年に逝去したのちにポンピドゥーセンターに移管された晩年のデッサン類、そして国立図書館に移管された草稿類が包括的に紹介される機会となった。哲学者ジャン=リュック・ナンシーによる静謐な文章(これもまたデッサンにおける「アルトーの顔」を主題としたものだった)からはじまる図録が、わたしたちの元に残されている。

1948年のアルトーの死以来、モーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズといった現代の哲学者・批評家たちによってアルトーの難解なテクストはたびたび読解を試みられてきたが、近年(2000年代以降)の研究の傾向のひとつとして、テヴナンの生前には半数強(全406冊中232冊分)しか刊行されなかった晩年のノート類(『カイエ』)の読解に比重が移っているということが挙げられよう。

これら1940年代中盤から後半にかけての「作品」とも「草稿」とも呼べないテクスト群においては、文字テクストとデッサンの融合という新しいエクリチュールが模索されているが、テヴナン編集による『アルトー全集』(全26巻)においては、デッサンが掲載されておらず、両者の関連性についてそれほど重視されてはこなかった。もっとも、テヴナンは1986年にデリダと『デッサンと肖像』〔邦訳、松浦寿輝訳、みすず書房、1992年〕を著しているが、そこでも『カイエ』についてはわずかなページが割かれているにすぎない。

こうした状況に対して、アルトーの著作を一冊に纏めた『アルトー著作集』(2004年)の編集を務めたエヴリーヌ・グロスマン(パリ第7大学)によって、これまで未刊行だったアルトーの『カイエ』(ノート番号:233-406)が一挙刊行されることとなったのは2011年末のことである[図1]。これにより一方では、アルトーの後期(1940年代後半)に書かれたテクスト研究のための素地がひとまず整ったと言えるだろうし、他方では、アルトーの活動をより包括的かつ横断的な仕方で考察していくことが求められつつあると言えるだろう。

Antonin Artaud, Cahiers d'Ivry, I, II, éd. Évelyne Grossman, Paris : Gallimard, 2011. Antonin Artaud, Cahiers d'Ivry, I, II, éd. Évelyne Grossman, Paris : Gallimard, 2011.
図1:Antonin Artaud, Cahiers d'Ivry, I, II, éd. Évelyne Grossman, Paris : Gallimard, 2011.

2006-2007年のフランス国立図書館における「アルトー展」が、その領域横断的な活動を文字通り横断的に見せていくことを趣旨としていたのに対し、今回のオルセー美術館の「ゴッホ/アルトー展」は、「美術」という芸術の一ジャンルに限定された展覧会であるように見えなくもない。それはフランスを代表する19世紀美術専門の美術館で開催されているイベントである以上は当然のことであるし、マン・レイの撮影によるアルトーの肖像写真や、1920年代から30年代にかけてアルトーが出演した映画の短い抜粋が上映されているとはいえ、実際に展示されている作品の多くは「美術」という枠組みに収まるものであることは否定しえない。

しかしながら、アルトーのテクストを読むときに何よりもまず障碍となるのは、このような既存の知的枠組みにほかならないのである。

ここでアルトーの『ヴァン・ゴッホ:社会が自殺させた者』の執筆された背景を確認しておこう。1947年初頭にパリのオランジュリー美術館で「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ展」が開催された際に、『芸術』誌に掲載された精神科医フランソワ=ジョアシム・ベールの記事を読んで激怒したアルトーが数週間のうちに書き上げたのが『ヴァン・ゴッホ』という小著である。ベール医師は、ゴッホを神経障害による「精神異常者déséquilibré」であると診断したが、9年間(1937年〜1946年)にわたって精神病院に監禁されつづけ、幾度の電気ショック治療で身体を損なわれてきたアルトーにとってその主張は断じて許しがたいものであった。ゴッホは決して「狂人」などではなく、むしろ「人並みはずれた正気 extra-lucide」の持ち主だった、というのがアルトーの主張の骨子である。

しかし『ヴァン・ゴッホ』というテクストのなかで、「狂人」と呼ばれたこの世紀末の画家を、苦しみに満ちたみずからの境遇と重ねつつ擁護したとしても、アルトーは「美術館」という近代的な制度に対して留保をつけることを決して忘れていない。「そこでは/陳列された/対象は/骨抜きにされ/それを生み出し、そして夜毎のしみったれた姦淫につけ足された贅沢税のように、野次馬としてそれを眺めにやって来る、ブルジョワどものけちくさいマスターベーションにそれを委ねた有機的な力学から抜き出される」(※1)のだと、アルトーは別の箇所(「アンドレ・ブルトンへの手紙」)で述べているのである。

したがって、アルトーのデッサンにせよ、ゴッホの名作の数々にせよ、私たちがそれらのフォルムや構図の独自性から画家の「精神異常」を抽出しようとするなら(それを神経医学などの見地から「身体異常」と言ってみても同じことである)、アルトーが命がけで論じようとした問題機制を見誤ることになるだろう。『狂気の歴史』(1961年)第三部序文でフーコーが述べていたように、古典主義時代の最中で『ラモーの甥』が切り拓いた空間においては「非理性は他なる世界のかりそめの現前として、ふたたび現れているのではない。非理性はこの世界において、すべての表現行為が生まれる超越において、言語の起源とともに現れる」(※2)のである。

このような「非理性の経験」は、1940年代後半のアルトーにおいて、徹底した「唯物論」とともに思考されており、彼自身はそれを「絶対的唯物論」(※3)と呼ぶ。アルトーの物質への徹底したこだわりは、『演劇とその分身』(1938年)のなかで展開される演劇理論にも容易に見てとることができるが、『ヴァン・ゴッホ』におけるテーゼのひとつも「身体に対する精神の優位の問題」であり、呼吸をつづける身体がなければ、そもそも精神活動は可能ではないのだという当然の事実を、アルトーは私たちの制度化された文化事象一般(宗教、芸術、政治……)に対して投げかけている。したがって、この著作で問題とされるのはゴッホの精神ではなく、むしろゴッホの身体であることになる。

「描くとはどういうことなのか? どうすればできるのか? それは見えない鉄の壁を突き破って一本の道を通すような行為であり、感じていることと、感じられるかもしれないことの間に見出だすことができるようだ」(※4)。

アルトーはみずからの著作のなかで『ヴァン・ゴッホから弟テオへの手紙』のなかから上記部分を抜粋している。言うまでもなく、描くという行為とは眼前に見えているものを写実的に再現することではない。というよりもむしろ、視覚とは決して歴史的に中立なものではないのだし、アルトーの考えによれば、それらはみずからの「意志」や「感受性」を通さなければ可能ではない。つまり、アルトーが問題化しているのは、ゴッホが描いているときの「身体感覚」なのである。

しかしながら、ここでひとつの疑問が生じることになる。仮に生命活動をしている身体が思考を規定しているとして、私たちは身体に対して一体何ができるというのか? 私たちは身体に対して奴隷でありつづけるのではないか? とりわけ「心身問題」において人間の精神活動を(たとえば脳内の)物質に還元しようとするタイプの唯物論が、ここで反論として想定される。このような問いに対するアルトーの回答は、明確である。すなわち、精神活動を基礎づける身体は自己にとって、一方で抗いがたい「不自由」として規定されながら、他方では予見不可能な「自由」として規定されもするというものだ。

先の引用におけるゴッホの言葉の「感じていること」を「不自由」に、「感じられるかもしれないこと」を「自由」に置き換えてみればわかりやすい。ここで重要なことは、このような知覚の二重化が、ある種の神秘体験とは一線を画しているという点であろう。「コリント書第一の手紙」を思い起こしておくなら、鏡を通したおぼろげなイメージしか得られない現世の人間が、自己の外部から到来する「奇跡」という飛躍に頼るのではなく、おぼろげながらもあくまで自然的な認識である自己の「抽象的認識」によって神へ接近することを語ったドゥンス・スコトゥスの哲学のように(※5)、ここで期待されているのは、「描く身体」が絶対的な所与としての身体(苦痛を伴うときそれは異物でしかない)を引き受けながら、そこから逃れるようにして「自由」を求め抗うということであり、すなわちアルトーにとって「描く/書く」という行為は、まさにこのような二重化された身体における意志と感受性の闘争なのである。

この闘争の場としての身体は、グロスマンの用語を借用するならば「ディスコールdiscorps」とでも呼びうるものである(※6)。すなわち「ディスクールとしての身体/身体としてのディスクール」。そこではディスクール(discours)と身体(corps)が不可分に結びつきあっており、また調和(accords)と不調和(discordances)が一体となって「調和的な不調和harmonieuse discorde」を生み出している。たとえば、演劇、映画、詩、音楽、絵画など、通常は分け隔てられているジャンルを易々と交流させてしまうアルトーの領域横断的なテクストは、ひとつのディスコール(身体的言語)を織りなしていると言えるだろう。

その意味では逆に、描かれる対象となる身体もまた一種のディスコール(言語的身体)でありつづけている。アルトーは、シュルレアリストの画家たちと親交の深かったギャラリストの友人、ピエール・ロブの誘いで1947年7月に「肖像とデッサン展」を開催するに至るが、このために書かれた「人間の顔」というテクストはそのことを端的に示している。「人間の顔は空ろな力、死の畑だ。/その身体に決して一致したことなく、身体とは別のものになるために動き出していたある形の革命的な古い要求」。「つまり人間の顔はまだその面を見つけておらず、/それを与えるのは画家だということだ」(※7)。

しかし、こうした「思考の途中/途中の思考」を何らかの枠組みや形式に従属させようとするなら、言い換えれば、これらを仮にも「芸術作品」と規定したり、ある種の「芸術形式」に帰属させることで満足感を得ようとするなら、先にも述べたように、画家の闘争の軌跡は、間違いなく「骨抜き」にされてしまうことだろう。大見得を切っているように聞こえるかもしれないが、「ゴッホ/アルトー展」において展示されているゴッホの絵画/アルトーのデッサンは、いわゆる美術史的な文脈から価値が計測されるのではなく、見るものとの間に一対一の関係が築かれて初めて「価値」が生まれる。しかしそれはどこまでも私秘的な価値であり、鑑賞者と絵画の間に生まれる関係性もまたつねに「途中」でありつづける。

もっとも、小市民的な告白をすれば、「名作」と言われるゴッホ作品の数々を間近に見ることのできる興奮は決して隠しきれない。オルセー美術館のゴッホ・コレクションに加えて、アムステルダムのゴッホ美術館から『イーゼルの前の自画像』(1887-1888年)、ロンドン・ナショナルギャラリーから『ひまわり』(1888年)、ロダン美術館から『タンギー爺さん』(1887年)が貸し出されているのである。加えて、アルトー研究者の端くれとしては、ポンピドゥーセンター所蔵のデッサンを自分の眼で見ることのできた悦びもまた認めなければならないだろう。

それでもなお、ゴッホの絵画/アルトーのデッサンは、「感じていること」と「感じられるかもしれないこと」の、「不自由」と「自由」の間の葛藤の記録として私たちの目の前に存在する。否、描かれたものがそのような精神の苦しみのドキュメントとして「存在する」ためには、私たち鑑賞者が両者の「鉄の壁」を突き破ることが可能かどうかが問われているのだ。ディスコールとしての絵画は、画家が眼差していた現実の対象ではなく、画家が対象を眼差していたときの「現実」を想像的に体験させるのである。このような鑑賞者に対する要請こそが、絵画空間における「残酷の演劇」の賭金であるとも言えようか。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》1890年7月、50.5×103cm、アムステルダム、ゴッホ美術館蔵
図2:ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》1890年7月、50.5×103cm、アムステルダム、ゴッホ美術館蔵
アントナン・アルトー《残酷の演劇》1946年3月頃、62.5×47.5cm、パリ、ポンピドゥーセンター、フランス国立西洋美術館蔵
図3:アントナン・アルトー《残酷の演劇》1946年3月頃、62.5×47.5cm、パリ、ポンピドゥーセンター、フランス国立西洋美術館蔵

ゴッホの風景画[図2]にせよ、アルトーの自画像[図3]にせよ、私(たち)はそれを見るときに一種の居心地の悪さのようなものを感じる。それは絵画が提示する世界像が「安定」を欠いているからにほかならず、アルトーの言葉を借りて一言で言えば、すべてが「下書き」だからである。途中であるということ。固定されず、動きつづけているということ。ドゥルーズ的に言えば、どこまでも「滑りつづける」ということ(『意味の論理学』)。「これらのデッサンを芸術作品だと、現実の美学的偽装の作品だとみなすものたちに不幸あれ、と言いたい。/どれも厳密には作品ではない。/すべては下書きだ。偶然の、可能性の、運の、宿命のあらゆる意味のなかに向けられた探り、あるいは攻撃ということだ」(※8)。

堀切克洋(パリ第7大学)

[脚注]

※1 Antonin Artaud, Œuvres, Paris:Gallimard, « Quarto », 2004, p. 1208.〔邦訳、アントナン・アルトー『アルトー後期集成3』河出書房新社、2007年、86頁〕

※2 Michel Foucault, Histoire de la folie à l'âge classique, Paris : Gallimard, 1972 [1961], p. 439.〔邦訳、ミシェル・フーコー「アルトーの叫び」中山元訳、『ポリロゴス2』、冬弓舎、2000年、226頁〕

※3 Artaud, op. cit., p. 1470.〔邦訳、アルトー、前掲書、243頁〕

※4 Vincent Van Gogh, Lettres à son frère Théo, Paris : Bernard Grasset, « Les Cahiers Rouges », 1937, p. 97.

※5 山内志朗『「誤読」の哲学:ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』青土社、2013年、26頁。

※6 Évelyne Grossman, Artaud/Joyce, le corps et le texte, Paris : Nathan, 1996. 本書は1994年にパリ第7大学に提出された博士論文「身体と言語のあいだ:テクスト空間をめぐって〔アントナン・アルトー、ジェームス・ジョイス〕」(主査=ジュリア・クリステヴァ)を纏めたもの。ただし現在、絶版となっている。

※7 Artaud, op. cit., p. 1534.〔邦訳、アルトー、前掲書、387頁〕

※8 Artaud, Ibid., p. 1535.〔邦訳、アルトー、同書、389頁〕