トピックス 5

シンポジウム「映画、建築、記憶」






2012年11月17日に、東京大学情報学環福武ホール福武ラーニングシアターにて、シンポジウム「映画、建築、記憶」が開催された。同シンポジウムは、2011 年 11 月にフランスのリヨンにおける東大フォーラム「カタストロフィーとメディア」での、諏訪敦彦監督と大学院生のディスカッションに端を発する。東大フォーラムでは、『H story』におけるトラウマと記憶および『不完全なふたり』における空間構成の問題などが議論された。

今回のシンポジウムでは、東北大学教授・建築評論家の五十嵐太郎氏を新たに迎え、東日本大震災およびその記憶という実際的な問題へと議論が接続された。本シンポジウムでは、諏訪作品における空間性・時間性が、カタストロフィーの記憶との独自の関連を提示しており、それゆえ大震災以降に生きる私たちにとって重要な示唆を与えてくれるのではないか、という展望のもと、登壇者のイントロダクションののち、大学院生から諏訪作品の分析、そしてより直接的な大震災の表象に関する、下記の問題提起が行なわれた。

  1. 『H story』と『二十四時間の情事』(アラン・レネ、Hiroshima, mon amour、1959 年)の比較(難波阿丹)
  2. 『不完全なふたり』におけるドア(開口部)の使用法(渡邉宏樹)
  3. 『H story』の分析を踏まえた阪神・淡路大震災を扱ったテレビ作品『その街のこども』(井上剛、2010 年)(谷島貫太)
  4. 「震災遺構」と「震災遺映」(松山秀明)

本シンポジウムの成果として、諏訪監督が東日本大震災の被災地を撮ることにたいする逡巡の態度が、諏訪監督作品の時空間に反映されていることが判明した点が挙げられる。震災の記録と記憶を残すことは、「震災遺映」(松山秀明)など様々な観点から重要である。しかし、諏訪作品はそれらが陥りがちな、震災の記録をひとつの物語へと回収してしまう態度に徹底してあらがい、記憶の物語を構築しつつ解体していく強度をはらんでいる。(難波阿丹)

ジョジョの奇妙な超越論的座談会






2013年1月26日(土)に、高崎経済大学にてシンポジウム「ジョジョの奇妙な超越論的座談会」が開催された。このシンポジウムは、同大学経済学部の國分ゼミのメンバーによって企画されたものである。学生主体のイベントでありながら、同ゼミでは過去にも白井聡氏と千葉雅也氏(2010年)、宇野常寛氏と萱野稔人氏(2011年)らを招き、いずれのシンポジウムも学内外から多くの聴衆を集めている。今回は、國分功一郎の司会のもと、石岡良治、星野太の2名がそれぞれ発表とディスカッションを行なった。

本座談会は、そのタイトルが示すとおり、荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』を分析的に検討する、あるいは——「超越論的」という部分にアクセントを置くならば——同作品を通じた経験の可能性の条件を問うことをその目的とするものである。とはいえ、漫画やアニメーションを専門的に研究する人々ではなく、大学生を中心とする幅広い聴衆を想定した本座談会においては、同作をめぐるまとまった理論よりも、作品に即した具体的な分析を提示することに主眼が置かれていたということを付言しておこう。

星野・石岡の講演においては、『ジョジョ』という漫画そのものの内在的な分析が提示されるとともに、その外在的な受容に対する参照がそれぞれ試みられた。同作の原画は国内外の美術館において一度ならず「展示」され、また『美術手帖』をはじめとする雑誌で特集が組まれるなど、「漫画」にとどまらず「美術」の文脈で受容される傾向を近年ますます強めている。本座談会のサブタイトルに「アートとしてのポップカルチャー」という表現が選ばれたことも、おそらくそうした動向と無縁ではないだろう。

そこで星野はまず、そのような——「アート」と「ポップカルチャー」をそれぞれ異なる独立した領域とみなす——問題設定がもつ誤謬を示すとともに、『ジョジョ』という作品には、実のところ少年漫画を中心とする複数の文法(コード)が混在しているという事実を、その作画や設定に分析を加えつつ提示した。通常、『ジョジョ』は少年漫画においては異端的な存在であると無批判に見なされがちだが、実際のところ同作には少年漫画(ないし『ジャンプ』)的な表現文法が随所に散りばめられている。『ジョジョ』が他の少年漫画と比べて異彩を放っているとすれば、それは複数の異質なコードの「並走」にこそあるのであり、『ジョジョ』という作品を際立たせているのは、その「ハイブリディティ」であるというのが本発表の核心をなす主張である。

石岡は、2012年から13年にかけて放映された『ジョジョ』のTVアニメなどに言及しつつ、同作の漫画的表現を成立させている諸条件について多岐にわたる論点を提示した。発表の前半では、荒木の読み切りデビュー作である『武装ポーカー』や、『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(集英社新書、2011年)を縦横無尽に用いた作家論的なアプローチがなされるとともに、後半ではフィギュレーション(形象化)、トランスフィギュレーション(変容・運命の突破)、コンフィギュレーション(配置・設定)といった「figure」に連なる概念を用いながら、『ジョジョ』のそれぞれのパートが多角的に検討された。

その後、國分・石岡・星野の3名によるディスカッションが行なわれ、最後に、各人がそれぞれ会場からの質問に応答した。ディスカッションのパートでは、『ジョジョ』という作品をめぐる論点ばかりでなく、漫画のメディア的条件に関わる原理的な問題にも話は及んだ。シンポジウムは3時間以上にわたって開催されたが、最後まで多くの聴衆を集めて盛況のうちに閉会した。同シンポジウムの運営を担ってくれた國分ゼミの方々には、登壇者のひとりとして深く感謝したい。(星野太)