小特集 インタビュー:アニメーション映画祭の現場から 3

インタビュー
アニメーション映画祭の現場から
土居伸彰
聞き手・記事構成:池野絢子、門林岳史

──他ジャンルとのクロス・オーバーという観点でもう少し聞いておきたいことがあります。たとえばヴィデオ・アートの作家が同時にミュージック・ヴィデオの制作を商業的に手がけているということはよくありますよね。また、そうしたことがどんどん増えてきているという印象があるんです。同じようなかたちで、実験アニメのコンテンツを制作している人が、商業ベースのアニメーションにも加わったりとか、そういうことは起こっていないんですか。

土居:それは作家によってだいぶ違ってきます。たとえばアメリカ生まれでずっとイギリスで活動しているブラザーズ・クエイという、90年代日本でブームになった双子の人形アニメーションの作家がいますけれども、彼らはもともとの素養もあってヴィデオ・アートや美術の方に入り込んで、単純な「アニメーション」の文脈とは違うところに行っています。「プロジェクト」として大規模に作品を作っている。クエイの場合は、プロデューサーがいることが大きいと思いますが。で、さっきのヴィデオ・アートの人たちがミュージック・ヴィデオを制作しているという話を聞いて思ったんですけれども、短編をやっている人たちは、基本的には、巨大資本とのつきあい方があまり得意ではない印象があるんです。そこには歴史的な背景もあって、短編の主な製作の現場である国営スタジオであれば、ただ単にスタジオにいることで製作費は出たわけです。しかも、映画などと比べても、アニメーションの検閲はすごく緩かった。ロシアやエストニアなど、社会主義圏の国営スタジオでは、才能のある人たちが集まって自由な表現を行う黄金期みたいなものが大抵の場所で生まれました。それはある意味で、自然に獲得されたものというか、なんの摩擦もなく生まれたものというか……。逆に、そういう環境がほとんどなくなった現状では、国営スタジオの資金でアニメーション表現を突き進めてきた人たちが、なかなか大きな制作資金にありつけないような状況があるんです。

──ミュージック・ヴィデオでいうと、お笑い芸人の鉄拳が去年一年の話題をさらった印象があって、不思議な参入の仕方だと思うんですけれど……。

土居:あれはやっぱりyoutubeだと思うんですよね。youtubeって、短編作家にとってみると、一見パラダイスに見えるんですけれども……。いま、ネット上に発表する機会が増えたり、美大でアニメーション専攻ができたり、という環境によって短編作家が増加して、市場のない短編を作ることでどうやって制作費や生活費を稼ぐかがかなりホットなテーマとして話題になっています。youtubeでいうと、パートナープログラムというのがあって、視聴回数に応じてお金がもらえたりする。でも、youtube含めそういったネット環境が整備されたときに、じゃあどういう表現が強くなっていったかというと、「ベタな」表現なんですよね。で、鉄拳のやつも、ある意味でベタと言えばベタじゃないですか。

──主題に関しても昭和的なノスタルジーの典型ですよね。

土居:短編アニメーションのアイデアの出し方として、かなりオーソドックスで、ある意味で前時代的にすら見えるんですけれども、たくさんの人が自然に内面化させているフォーマットをきっちり利用しているな、という感じがします。鉄拳のパラパラ漫画って、ディズニーやピクサーの短編とかなりフォーマット的に似ているんですよ。そこら辺はなんか面白いなって。いまちょうど、ディズニーの一番新しい短編『紙ひこうき』が、手書きの表現と、CGの表現をすごくナチュラルにミックスしたものとしてネット上で話題になっているんですけれども、そういうのとも少し近いものを感じるというか。同時期に上映する『シュガー・ラッシュ』っていう長編のオープニングで上映する作品なので、そういったプロモーションも含めてリリースしたと思うんですけど。

──『魔法少女まどか☆マギカ』や「ノイタミナ」の枠で放送している一連の作品のような、括弧つきアート系深夜アニメみたいなものがありますよね。そういうものが土居さんにとってどういうふうに見えているかも聞いておきたいんですけれど。

土居:僕も日本に住んでるわけですから、エヴァンゲリオンだったりジブリだったり、日本のアニメの典型となるようなものは見ており、ある程度の蓄積はある。だから、『まどマギ』に関してはそういう眼で面白いと思ったりします。一方で、最近デジタル技術が浸透することで、商業アニメ内に手書きっぽい表現が入り込んで、それが「アート的」と言われたりもしますけど、それはあくまで表面的なものにすぎないよな、という印象をもっています。どういう表現を使っていようが、ベースの方法論があまり変わっていなくて、30分のテレビ番組のフォーマットという伝統の上に成り立っている。だから、映画祭文脈の人たちがそれを見て生産的な共有があるかというと、たぶん簡単にはいかないのかなという感じもします。

アニメーション批評の構築のために

──土居さんは大学でアニメーションについて教えてもいますよね。そのときには、まんべんなく教えてくださいっていうプレッシャーはもちろんあると思うんですけれど、学生の期待の地平と、自分の教えたいことの地平と、当然齟齬がありそうですよね。

土居:そうですね、僕の場合は、最初に一番呆気にとられるだろうっていうものを見せるところからはじめます。アメリカにブルース・ビックフォードという、かつてフランク・ザッパとコラボレーションしていた作家がいます。とにかくずっとメタモルフォーゼが繰り返されるようなクレイアニメーションを作っています。まず最初にそういう、ほんとにストーリーもなにもなく粘土がただたんに動いているだけみたいなものを見せたり、あとは、国営スタジオならではの方法論で作られていると僕が感じるものを見せたり。プリート・パルンというエストニアの巨匠がいるんですけれども、その人は「すべての観客が理解する必要はない」という態度で作っているんですね。結果として、誰もが「異質さ」を感じるような作品になっていると思います。彼の作品は、産業の一部として作られるアニメーション、つまり、制作費の回収などが必須の条件となっているアニメーションとは異なる原理をもっとも分かりやすいかたちで打ち出せている作家だと思います。彼の場合、諷刺画やポスターアートの伝統を受け継ぎつつ、社会主義時代のエストニアにおいて、「異質さ」というものが持つ社会的意義なども理解したうえでそういう表現になっているわけです。しかし、彼の作品の「異質さ」の戦略みたいなものは今でも有効で、そういった原理的にまったく違うアニメーションをあえて見せることによって、当然学生の方は「なんだこれ」となるんですね。それをきっかけにして、自分たちが見ているアニメーションというのは、実はひとつのフォーマットにしたがったものでしかないんですよっていう話から始めていくと、逆に、ジプリやディズニーを取り上げてみても見え方が違ってくる……。僕がいつも授業でやっているのはそういう方法です。

──ある種の異化効果みたいなことを最初にやっておくと……。

土居:そうですね。もし何かしらきちんとした教科書があれば、それにそって授業することもできると思うんですけれど。現状、アニメーションについて包括的に書かれた本というのは、日本ではほとんどないと言っていいと思います。とりわけ海外の状況については、古くて偏ったことしか書いていない。だから、きちんとした本がないという状況を考えると、アニメーションについての「考え方」を教えるようなかたちの授業をすることが有益なのかなと。

──国営スタジオや公的な資金をもらって制作しているアニメーションと商業的なアニメーションが、対立とはいかないまでも、少なくとも齟齬があるということが繰り返し話にでてきたと思うんですが、たとえば大塚英志は「クール・ジャパン」という言葉に反論して、マンガやアニメは商業ベースでやってきたし、そうでなきゃいけない、国が援助したりしたら逆にだめになる、というようなことを言っていますよね。日本は現状、公的な資金によって好きなものを作ってくださいという状況はあまりないのだと思うんですが、今後そういう制作環境がどうあったら良いのか。その辺はどう考えますか。

土居:大塚英志がそういった発言で対象としているのは、大衆文化の一部として作られてきたアニメーションです。日本とアメリカにはまったく公的資金が入らずに産業として成立しているアニメーションがあるんですけれども、それに関してはそうなのかもしれないんですよね。でも、そうじゃないアニメーションもたくさんあるというのが僕の立場からすると肝心なところです。日本の政策もその辺は変わってきていて、個人作家が作るような短編作品の予算規模に対する助成金はこれまでなかったんですけれども、最近、若手も使えるような、100万円規模の助成がフォーマットとして出てきています。個人作家として特に援助もなく長年日本でやってきた方々が文化庁に呼ばれてヒアリングされるようになってきた結果だと思うのですけれども。だから、あくまで日本国内の状況に関して言えばですけど、短編を作りやすい状況になってきているかなと。最悪がちょっとマシになったという程度ですが。

──いままでお話を伺っていて、他ジャンルとの関係で言うと、交渉というよりも没交渉というか、まだコミュニケーションが十分にとれていないという印象を持ったんですけれども、教科書のこともふくめて、たぶん批評言説をこれから作っていかなければいかない状況があるのだと思います。そうなったとき、他ジャンルの言説や他の文脈のアニメーションの言説との関係性のなかで、アニメーションの言語はどういうものを構成していくべきだと考えていらっしゃいますか。

土居:それはちょうど博士論文で僕が取りかかっていることなんです。今日のお話では、映画祭文脈と商業アニメーションの間での没交渉の話をしてしまったんですけれども、僕は逆に包括的に歩み寄らせて考えることによって、乗り越えることができるんじゃないかと考えているんです。そのキーポイントになるのがディズニーなんですね。『表象』の特集でもディズニーを取り上げた論文が多いです。ディズニーを再考したかった。ディズニーは商業アニメーションのフォーマットを作った一方で、ソ連など東側諸国の国営スタジオにも輸入されていて、根本的なところで、非常に大きな影響を与えているんです。もちろん、国営スタジオという特殊な環境のなかで、要するに、資金の回収について考えなくていいという環境のなかで、アニメーション表現に変化が生じた、ということがあります。だから、そういった道筋を丁寧にたどることによって、とりわけアニメーションのなかでの没交渉は、ある程度は解消できるのではないか。そういう作業はまだなされていないのですが、それによって何かしら見えてくるものがあるのではないかと考えています。

──ありがとうございました。

(2013年2月16日、恵比寿にて)