研究ノート 杉山 博昭

聖史劇のテクストを読む理由
――ソネットのワイン、セリフの肉
杉山 博昭

研究史上における聖史劇、もしくは聖史劇の上演台本の価値は、いかに担保されうるのだろうか。美術史研究に一時代を画したマイケル・バクサンドールは、1972年の『ルネサンス絵画の社会史』において、「時代の眼」と呼ばれる各時代に固有の認識方法に注意をうながした※1。そこでもっとも多く紙面が割かれたのは、15世紀フィレンツェにおける身ぶりのコードの分析であり、言わばこの「時代の眼」の中心(コア)から排除された表象が聖史劇であった。現在では、その舞台効果のスペクタクル性や上演台本から仄見える時空の組織法に、同時代の視覚文化との接点が見いだされつつあるものの、その演者の身ぶりに依然不明な点が多いことは事実である※2

ニュー・アート・ヒストリーの一翼を担ったこの著書からほぼ40年を経て、今度は社会史研究から聖史劇へのネガティヴな提言が出た。聖史劇の制作団体でもあった兄弟会を研究するコンラッド・アイゼンビヒラによれば、当時の社会における聖史劇の意義とは上演に来場した貴賓の家柄や贅を尽くした終演後の祝宴にあったのであり、上演内容にはなかったという※3。たしかに、かつて1490年2月に旧トリニタ・ヴェッキア聖堂中庭で『聖ヨハネと聖パウロの聖史劇』に出演した銅細工職人は、貴賓席にロレンツォ・デ・メディチの姿があったことや、終演後に上等なワインやケーキが振る舞われたことを熱っぽく証言するものの、再現されたふたりの使徒の物語については完全に沈黙する。アイゼンビヒラは、他の祝祭行事と比べて聖史劇にかんする同時代の証言が少ないという事実に、この「示唆的」な沈黙を重ねる。その上で、当時の一般的な市民は、平信徒が再現する聖なる物語にはさしたる関心を持たなかったと結論するのである。

このように聖史劇の参照項としての価値は、美術史や社会史など隣接する研究領野からたびたび留保されてきた。しかし現実のコミュニティや文化的状況のなかで、はたして聖史劇をある種の空白とみなすことは適切なのだろうか。たしかに同時代の受容状況を証言する資料が少ない現状において、素朴で無邪気すぎるようにも思われるこの証言が、ひときわ目を引くことは否めない。ただ、かねてより伝わるその制作頻度や上演規模にかんがみれば、再現される物語、とりわけ同定が進む上演台本のテクスト群を一顧だにしない姿勢には、違和感を禁じえない※4。少なくとも当時の市民や旅行者の多くが、一連のテクストを歌う演者の声をじかに聴いたことは否定できないのである。

そこで取り上げたいテクストは、フェオ・ベルカーリ作『キリストの昇天の聖史劇』(以下『昇天』)である。聖アグネス兄弟会が制作し、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂で上演された『昇天』は、15世紀のフィレンツェでもっとも頻繁に再演された聖史劇である。正教会の主教アブラハムによる1439年の見物記録は、この上演が内陣障壁上でなされたことやキリスト役の演者が「雲」と呼ばれるフレームで宙づりとなったことを伝える※5。そのケレン味あふれる舞台効果がユベール・ダミッシュらに参照される一方、その上演台本のテクストが注目されることは少なかった。ましてや『昇天』のテクストに添えられたソネットが顧みられることは、絶えてなかったといえる。

ベルカーリのソネット『昇天の祝祭委員がコジモ・デ・メディチ様を観想するために』は以下のような内容である※6。前半では、「国の父」にして「聖堂の守護者」であり「貧しき人々の保護者」としてコジモを称えつつ、兄弟会の祝祭委員(フェスタイオーロ)はみな、コジモに忠誠を尽くすことを宣言する。後半は「キリストが天上へと向かわれる際には」という典型的なターンで始まり、コジモが「喜びと楽しみ、にぎわいのうちに」過ごせるよう、コジモの「あらゆる望み」が叶うよう、みなが天に祈ることを宣誓する。つまり、上演前にデル・カルミネ聖堂内の見物客のまえで詠唱されるこの12の詩行は、その後に再現される宗教的な物語を、現実の世俗的な文脈に再配置する役割を担っている。さらに興味深いのは、ターン直前の以下の箇所である。

ここにいる貧しき者たちは、懇願するのです
あなたの良きワインが渇きを癒してくださるようにと

先に挙げた銅細工職人の証言をふまえるなら、この「ワイン」という表現は慈悲をあらわすトポスでありながら、より直裁的に上演後の祝宴をも示唆するのはまちがいない※7

このソネットの詠唱に続くのは、八行詩節で構成された『昇天』の冒頭場面となる※8。他のすべての聖史劇と同じように、『昇天』の最初のセリフは開演を告知する天使役にあてられる。『昇天』の天使役は、「静粛を守って、神聖なる昇天を見守る」よう見物客に要請し、そのために以下の3つの要素に「深い敬虔の念をめぐらせる」よう指示する。ひとつ目は「昇天される神、キリスト」、3つ目は「救済の発端となる十字架」であり、それらのあいだに置かれたふたつ目の要素が以下である。

おおいなる優美な恩寵をみなさまに施すマリア様が
お引き受けくださった、あの肉に掛けて

「人たるキリスト」を記念する聖史劇の形成を準備したのは、第4回ラテラノ公会議にて決議された実体変化の教義であった。実際、「肉」という表現は「受難劇」や「殉教劇」など、他の多くの上演台本に頻出する。ただ、直前のソネットからの流れを受けるこの『昇天』の冒頭場面は、聖体(ホスチア)の奇蹟をより強く見物客に印象づけるにちがいない。なぜなら先の引用箇所にもあるとおり、この聖堂内では「ワイン」という象徴的な響きがあらかじめ耳に強調されていたからである。この観点に立つと、『昇天』のソネットから本編への流れに、表象(レプレゼンタチオ)のプロセスが漸次的に進行する様が浮かび上がる。

たしかにこのソネットは、『昇天』本編のテクストにたいするパレルゴンであり、だからこそ上演の外部である来賓席や祝宴という要素を示しえたのかもしれない。しかし開演時の状況、とくに見物客の聴覚的契機をふまえるなら、聖史劇のテクストにおけるエルゴンとパレルゴンは隔絶したものではなく、その両者のあいだに一定の連続性を措定しうることがわかる。このような理由から、聖史劇上演という出来事にたいする外部のみを特権化し、再現される物語という内部を顧みないアイゼンビヒラの主張は、挑発的に過ぎると思われるのである。そもそも同時代の資料上でも、聖史劇(ラプレゼンタッツィオーネ)と祝祭(フェスタ)のあいだに表記上の揺らぎが見られる。現在の観点から、前者を純然たるエルゴンとし後者をパレルゴンも含む行事全体と解釈することも、短絡の誹りはまぬがれないだろう。

最後にふたたび『ルネサンス絵画の社会史』に立ち戻る。聖史劇を15世紀フィレンツェの「時代の眼」の中心(コア)から排除したバクサンドールであったが、それでも彼の著書の掉尾を飾ったのは聖史劇の上演台本からの引用である。ベルカーリ作『アブラハムとイサクの聖史劇』のこの一節は、その後の美術史研究や社会史研究の成果をふまえてなお、「眼」のみにとどまらず「耳」に「示唆的」に響くのではないだろうか※9

目は第一の門といわれます
それをとおして知性は学び味わうのです
耳は第二の門であり、細心の言葉は、
精神を強靱にするのです

杉山 博昭(京都教育大学)

[脚注]

※1 BAXANDALL, Michael, Painting and Experience in Fifteenth-Century Italy: a primer in the social history of pictorial style, Oxford University Press, Oxford 1972 [rpt. 1988, pp.165-168]〔『ルネサンス絵画の社会史』篠塚二三男・池上公平・石原宏・豊泉尚美訳、平凡社、1989年〕.

※2 同時代の視覚文化と聖史劇の照応にかんする分析は以下を参照。杉山博昭「反復/再演する図像 —— 聖史劇研究の成果をふまえて」『人間・環境学』第19巻、2010年、59-77頁。

※3 EISENBICHLER, Konrad, How Bartolomeo Saw a Play, in Eisenbichler, K. and Terpstra, N. (edited by), The Renaissance in the streets, schools, and studies: Essays in Honour of Paul F. Grendler, CRRS Publications, Toronto 2008, pp. 264-275.

※4 TREXLER, Richard, Florentine Theatre, 1280-1500: A Checklist of Performances and Institutions, in ≪Forum Italicum≫ 14, 1980, pp. 454-575.

※5 SUZDAL, Avraamija, Avraamija Suzdal'skogo, in Krajcar, J. (a cura di), Acta slavica Concilii Florentini: Narrationes et Documenta, Pontificum Institutum Orientalium Studiorum, Roma 1976, pp. 121-124.

※6 BELCARI, Feo, A Cosmo de' Medici per contemplazione de' festaioli della ascensione, in Newbigin, N. (a cura di), Feste d'Oltrarno, vol. II, Olschki, Firenze 1996, p. 253.

※7 聖アグネス兄弟会が『昇天』上演後の祝宴に投じた費用も同兄弟会の出納帳に記録されている。たとえば1438年の莫大な出費は以下を参照。Agnese, 98, in Newbigin, N. (a cura di) Feste d'Oltrarno, vol. II, Olschki, Firenze 1996, pp. 356-362.

※8 BELCARI, Feo, Representazione dell'Ascensione, in Newbigin, N. (a cura di), Feste d'Oltrarno, vol. II, Olschki, Firenze 1996, pp. 254-256.

※9 BELCARI, Feo, Representazione d'Abramo e Isacco, in Le rappresentazioni di Feo Belcari ed altre di lui poesie, Ignazio Moutier, Firenze 1833, pp. 1-22. バクサンドールはテクスト冒頭のこの4行で著書を締めくくっている。

チェーザレ・リージ、ルドヴィコ・ゾルジ、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂に設置された1439年の舞台装置復元模型、1975年

フェオ・ベルカーリ作「アブラハムとイサクの聖史劇」の挿絵 1833年