小特集「メタモルフォーゼ」 1.対談 松尾恵×佐藤守弘 5

対談:松尾恵(MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w)×佐藤守弘(京都精華大学)|森村泰昌とダムタイプの80年代京都文化|聞き手:門林岳史、林田新|記事構成:林田新

京都チャリンコ文化圏

佐藤:そこでお聞きしたいのは、80年代くらいの京都のギャラリー・シーンについてです。最近京都精華大学で開催した中原佑介についてのシンポジウムで、1950年代の東京の画廊は一日で全部回れるくらいの数しかなかったっていう発言がありました。でも80年代の京都には結構あったような……。

松尾:いや、それでも一日で回れました。80年きっかりのころで言うと、数軒しかなかった気がします。骨董とか日本画を扱っているところは別にして、私たちに身近な画廊というと数軒ですね。〔京都の中心地の〕河原町を北上すればほとんど全部見れた。ちょうどギャラリー16が寺町から京阪三条あたりに移るころですね。

佐藤:立体ギャラリー射手座や平安画廊は?

松尾:ありました。それからギャラリーなかむら。ギャラリー16の上にあったアート・コアはもうなかったかな。映像ばっかりやってはったとこ。

佐藤:そういうところは貸画廊ですか。

松尾:そうです。ぎゃらりーなかむら以外は全部そうですね。〔三条通を東に行った〕蹴上のギャラリーすずきとアート・スペース虹が80年代初頭にできるんですよ。それが実を言うとすごく新しいタイプで、若い人たちの流れがそれでザザっと移っていく。

佐藤:ちょっと郊外ですよね、京都の感覚で言うと。

松尾:両方とも自宅改装型なんですよ。だから、貧しいアーティストを支援したいという熱い思いでレンタル料が破格に安い。蹴上のその二軒と、あとは版画を扱ってたギャラリー・ココですね。全部で10軒未満。河原町を縦に上り、東に行ったらそれですんじゃう。あと、四条河原町下がったところの梁画廊。私はそこに1年半くらい勤めてて、私がやめてからダムタイプの展示をやったんかな。梁画廊は変なところで、高山登のインスタレーションのなかで田中泯が踊るっていうような(笑)、濃いのをやってたんですよ。で、その延長でダムタイプをやった。

佐藤:でも、舞踏とかアングラ演劇的なものとダムタイプみたいなものはいまとなっては別物として受け取られているけれど、当時は延長線上で受け止められたっていうところもあったんでしょうかね。

松尾:そうですね。昔はハプニングって言ってたのが、イベントって言われるようになったり。インスタレーションとかパフォーマンスっていう言葉が、80年代に耳慣れぬ言葉として浮上してきた感じですね。

佐藤:パフォーマンスは、それまでの画廊というシステムというかハコとは相容れないものですよね。

松尾:貸画廊でしかできないことっていうのは、それこそお金にならない作品ですよね。お金にならない作品が主流になってきた時代から、貸画廊が隆盛してきたと思うんですよ。貸画廊というよりもオルタナティヴ・スペースとして、作家がお金を払って三日なり一週間なり占有する。で、好きなことをする。売れなくてもよいし。画廊の扉を閉めれば全裸になろうが何しようが構わない。そういう自由が許された空間としての貸画廊っていう側面がすごく強かったと思います。

佐藤:そういうオルタナティヴ・スペース的な場所としては例えばどういうところがありましたか。

松尾:パフォーマンスを取り入れたのはやっぱり梁画廊が大きかったですね。梁さんというのは韓国系の方で、ちょっと独特な感性をもった方だったんですけど、アートの巫堂(ムーダン)というか、巫女的な先見性を持っていると自負してる人やったんです。そこではダムタイプだけでなく結構パフォーマンスをやりましたね。あとは蹴上のアート・スペース虹。近くの九条山に住んでいたまだヨシダミノルさんなど。ヨシダミノルって具体の最後のメンバーですよね。アート・スペース虹の展覧会でパフォーマンスやったことがありました。ちょっと後になって展覧会にオープニング・アクトっていう感じでパフォーマンスとかイベントをくっつける時代がやってくると、ギャラリーすずきとかでもやってましたよ。この2軒は、ビルじゃなくて路面店だから、舗道を客席にして中を見ることができたから。

佐藤:お話を聞いていると、京都の地理でいうと東ですよね。それがいまは例えば中心が河原町から〔西側の大通りの〕烏丸になっていったり、松尾さんのVOICE GALLERYも河原町今出川から南に移られたり。とくに最近の河原町の空洞化っていうのは酷いもんがある。

松尾:いま、河原町に本屋がないですものね。本とか文化を求める人が河原町をあんまり歩いていなくて、チェーン店とカラオケばかりになっていく。

—— 80年代京都の文化的な状況と現在との切断が一番大きいのはそういうところでしょうか。

佐藤:もしかしたらポイントは河原町かもしれないという……(笑)。

松尾:確かにそうかもしれませんよ。いろんな理由が考えられるんですけど、〔1981年に〕地下鉄が烏丸通の下に通るでしょ。例えば大阪まで通勤する人は地下潜ってシュっと行っちゃうわけで、三条四条間を歩いたりすることがなくなったのかもしれませんね。あと、学校も京都芸大は沓掛に移転するし、大学が郊外型になると他の大学も学生さんが外に出ていかなくてもすむくらいのホスピタリティが求められるようになってきたというのもあると思う。

佐藤:〔1978年に〕市電がなくなったのはでかいかもしれないですね。河原町通とはちがう文化ラインとして、京大と同志社、さらには立命館をつなぐ今出川通を〔東西に〕結ぶラインがありましたでしょ。今出川ラインが弱くなりましたよね。

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