小特集「メタモルフォーゼ」 1.対談 松尾恵×佐藤守弘 2

対談:松尾恵(MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w)×佐藤守弘(京都精華大学)|森村泰昌とダムタイプの80年代京都文化|聞き手:門林岳史、林田新|記事構成:林田新

—— それが85年。さきほどのダムタイプが代表するような新しいというかオシャレな80年代京都のなかで、その展覧会の位置づけはどんなものだったんでしょうか。

松尾:オシャレというか、ちょっと古い時代は終わったなっていうのはいろんなところに感じていました。篠原さんが後押ししてた関西ニューウェーブって言われる人たちがたまたまオシャレだったっていうのもあるんだけれど。もうひとつ言うと、80年ごろって雑誌がいっぱい創刊されたんですよ。それこそ今は廃刊しちゃったようなファッション誌がいっぱい出るんだけれども、必ず「アート」のページがあるんですね。それまで私たちは美術は「美術」って呼んでて、「アート」なんかよう言わんかった。それが新しいファッション誌の軽い雰囲気のなかで、「美術」は言葉としてしんどいから「アート」って皆さん言うようになった。関西ニューウェーブとか、関西アート・シーンとか、各雑誌のアート・コーナーに、顔の写真つきで載るわけですよ。そしたら、みんな可愛いわカッコいいわでしょ? アーティストっておじさんちゃうのっていうイメージをみんな持ってたんだけれど、パッと蓋をあけてみたら実はそんなことなくって。人物そのものもすごくフォトジェニックだし、作るものはそれこそ美術だけでなく音楽とかファッションを取り入れたりっていう、そういう感じでした。

佐藤:それこそ日本の「芸大」、「美大」がイギリスとかの「アート・スクール」みたいになるんですね。

—— 「美術」から「アート」へのメタモルフォーゼ。

松尾:もう、ほんまそうでしたね。いまでもやっぱり美術家と名乗るか、美術作家と名乗るか、アーティストと名乗るかって、ものすごく自意識の象徴だと思うんですよ。本人自らアーティストと名乗れる人はいまでも少ないですよね。

佐藤:「アーティスト」という概念自体は今ではすごく希薄な感じもあるにはあるけど(笑)、なんとなくその頃は英米っていう感じがしますよね。フランスではなく。

松尾:フランスが一番印象の薄い時代ですよね。80年になったとたんに、ニューペインティングがドッサーってリアルにくる感じがありました。それまでの禁欲的なコンセプチュアル・アートとかもの派とかとほぼ正反対なので、若い人たちにとってはニューペインティング万歳って感じだったんですよ。そうすると、そういうののスターっていうとアメリカ、イギリス、ドイツ。

佐藤:〔アンゼルム・〕キーファーとか〔フランシス・〕ベーコン。

松尾:〔ジグマー・〕ポルケとか……。しかも、そこにテクノ・ミュージックみたいなものがくっついてくる。

佐藤:立花ハジメとか、奥村靫正っていうデザイナーが「アート」のスターって感じでした。僕らもそういう情報は『美術手帖』よりも『宝島』とかでも知るんですよね。ファッションとアートと音楽が最先端で結びついているみたいなところがありました。

松尾:本当にサブカルの雑誌もいっぱい出てました。

佐藤:フリー・ペーパーが出てきたのもそのころですよね。

松尾:多かったです。有料の雑誌だけれど、京都では、今や伝説の『Pelican Club』が出ました。

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