現代日本文化のネゴシエーション インタビュー2 イェンチン研究所 1

日本研究も、現在人文・社会科学が世界秩序の変動と連動して経験しつつあるラディカルな変容と無関係ではいられない。「グローバル化」という言葉で指し示されているその変容は、単に言説のみではなく、言説を可能にする制度的な条件そのものの変容をも含むがゆえにラディカルなものである。本稿で筆者に与えられたのは、「ハーヴァード・イェンチン研究所Harvard-Yenching Institute(HYI)における日本研究の現状」という課題であるが、一口に「日本研究」といっても分野が多岐にわたり、HYIに集う研究者が関わっているものに限ってもその「現状」を再構成するのは筆者の手に余る。そこで本稿では、80年以上もアジアにおける人文・社会科学の動向に深く関与し、ユニークな仕方でその発展に寄与してきてきたHYI が、現在どのようなコンセプトのもとで、どのような研究機関としての体制を作り上げながら、アジア研究およびアジアにおける人文・社会科学研究にコミットしようとしているのか、そしてその活動の中で研究対象としてのみでなく研究主体としての日本がどのように位置づけられるのかを紹介したい。そのために最善の方法と思われたのは、HYIをリードするエリザベス・ペリーElizabeth Perry所長の声を直接お届けすることである。ペリー教授は、近現代中国における労働運動を中心とする民衆の抗議運動や草の根の政治運動を専門とする研究者で、2008年に杜維明Tu Weimingに代わってHYIの所長に就任して以来、新たなイニシアティヴを強力に推進している。その背景にあるのが、人文・社会科学のラディカルな変容に対応するための研究機関としての戦略やアイデンティティの追求であることは、以下に紹介するインタヴューにもはっきりと示されている。

HYIは、アルミニウムの製錬技術の発明とそれを用いた事業の成功により巨財を成したチャールズ・ホールCharles Hall(1863-1914)の遺産の一部を基金とし、1928年に創設された。ハーヴァード大学とは様々な面で深い関係を持つが、法的にも資金的にも独立した研究機関である。その80年以上の歴史についてはすでに様々な研究がなされているので、興味のある方はそちらを参照していただきたい *1。現在のHYIの軸となる活動は、客員研究員プログラムVising Scholar Programと客員フェロープログラムVisiting Fellow Programであり、それぞれアジアにおける提携機関 *2 から若いファカルティと大学院生を招聘し、ハーヴァード大学その他を拠点とした短期の研究活動(研究員は1年、フェローは1年半)をサポートするものである。またHYIは過去の客員研究員やフェローのアラムナイ活動も積極的に推進しており、アジアにおいてカンファレンスやワークショップを数多く行ってきた。ペリー所長はこうした既存のプログラムを改良・充実させるとともに新しいイニシアティヴを立ち上げ、研究所を新たな方向へ導こうとしているのである。

HYIの現在の活動は様々な意味で示唆に富むが、日本研究に関して言えば、研究の方法論的かつ制度的枠組みという点でインスピレーションを与えるものではないだろうか。方法論の面では、例えば新HYIは比較研究に大きな力点を置いている。インタヴューでも明らかにされるように、例えば文学、都市文化、草の根政治運動、市民社会といった広い意味での社会活動を、間アジア的ないしよりグローバルな枠組みから様々な次元で比較研究するといったヴィジョンには可能性があるだろう。そしてこうした研究が一研究者の手に負えるものではないということからもわかるように、制度的な面では、共通の問題関心を抱える研究者間での間アジアそしてグローバルなコミュニケーションを支えることがやはり重要であろう。日本研究が行われる〈空間〉というものを仮にイメージしてみるならば、我々は現在の人文・社会科学のラディカルな変容に直面して、その〈空間〉には一体誰が参加し、どのような声が響いているのか? それは世界のどこに位置しているのか? そしてそこから世界にどのように関わっていくのか? といった問いをもう一度発しなくてはならないだろう。以下にお届けするインタヴューから、ペリー所長自身の声のみではなく、それに反響する他の様々な声が、今まさに日本研究に向けて届けられているのだということを読み取っていただければ幸いである。(記:橋本悟)

*1 日本語で読めるものには、中島隆博「ハーヴァード・イェンチン研究所—沿革と現状−−」、『東方学』(110号:2005年)、149-158頁がある。英語では、Shuhua Fan. “Cultural Engineering: The Harvard-Yenching Institute and the Chinese Humanities, 1924-51” (Ph.D. diss., U. of North Carolina at Chapel Hill, 2007) 等がある。またHYIのウェブサイト(http://www.harvard-yenching.org/history)も参照。

*2 HYIの現在の提携機関は、http://www.harvard-yenching.org/partner-institutions を参照。

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