第5回大会報告 研究発表 6

パネル6

2010年7月4日(日) 14:00-16:00
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム

研究発表6:〈映画〉と多層化するコミュニケーション
── 20世紀前半のアメリカ映画、そして満州映画

劇場化される映画史と映画作家、それらの表象を越えて
── 無声期アメリカにおけるエーリッヒ・フォン・シュトロハイムを例に
後藤大輔(早稲田大学)

フィルム・アーカイヴにおけるインター・コミュニケーションの一ケース
── 東京国立近代美術館フィルムセンター1930年代アメリカ映画上映企画を通して
檜山博士(東京国立近代美術館フィルムセンター)

満州映画協会による「啓民映画」に見る異文化コミュニケーションの表象
劉文兵(早稲田大学)

【コメンテーター】中村秀之(立教大学)
【司会】門林岳史(関西大学)

本パネルの三発表は、サイレント期のハリウッド(後藤大輔氏)、東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈されたアメリカ映画のコレクション(檜山博士氏)、満州国のプロパガンダ(劉文兵氏)と多様な対象を扱いつつ、映画が製作され、観客によって受容されるに至る回路における一断面を照射し、歴史的・制度的文脈の中で論じている。こうした取り組みを敢えて「コミュニケーション」と名付けることに新鮮な可能性を感じたのは私だけではないだろう。映画作家と映画産業の軋轢(後藤氏)、アーカイヴにおけるカタログ化と上映プログラミングの戦略(檜山氏)、植民地下の映画における表象のポリティクス(劉氏)は、伝統的な映画研究では(といってもせいぜい七〇年代以降だが)、「観客」「受容」に関わる事象の分析として捉えられてきたからだ。三発表に続く総論的コメントの中で、中村秀之氏は「コミュニケーション」を何らかのシステム──あるいは制度、枠組み──に準拠したものと捉え、その上でそうしたシステムをずらす形で新しい言説の中に多様な対象を書きこんでゆく試みとして、本パネルを評価した。言い得て妙であり、私の報告もこの線に沿うことになる。

後藤氏の発表は、サイレント期の監督・俳優としてのエーリッヒ・フォン・シュトロハイムのキャリアについて言説分析を行い、「コミュニケーション」という語と切り結んでその理論的布置を前景化している。シュトロハイムといえば「呪われた作家」の元祖であり、偏執狂的天才芸術家と商業主義的映画産業の対立という大文字ずくめの物語の起源を提供した監督だ。後藤氏はこうした偉人伝調の映画史記述(Great Man Theory)をいみじくも「消費的コミュニケーション」と呼び、映画以前から存在する近代ロマン主義的な枠組みを映画産業が横領し、さらにそこに映画批評家や歴史家が便乗したものとする。この種の映画史記述を否定するのではなく、ずらして書き換えてゆこうとする試みを後藤氏はロラン・バルトのテクスト観に依拠して「テクスト的コミュニケーション」と呼び、引用・参照・反響のプロセスとしての映画史を提唱する。具体的には、シュトロハイムが消費的コミュニケーションの中で流通した俳優としての自己のイメージを横領・流用・パロディ化した表象(『アルプス颪』20)がこうした「対話的コミュニケーション」の実践となる。実に刺激的な発表で、カルチュラル・スタディーズ系の映画スター分析(リチャード・ダイヤーなど)との結びつきの可能性、テクスト理論と歴史研究の関係など、提起する論点は尽きないだろう。

フィルムセンター客員研究員として「ワーナー・ブラザーズ・コレクション」と呼ばれる365本の16mmフィルムを調査・カタログし、三回に亘る特集上映をプログラムした過程を辿る檜山氏の発表は、まさに物(ブツ、司会の門林岳史氏より拝借)を扱う現場からの報告である。とりわけ面白いのは、このコレクションの中身が、1927年から34年にかけてワーナーやMGMをはじめとしたハリウッドのメジャーで作られた長編作品という以外は極めて「ランダム」だということだ(『ジャズ・シンガー』など有名作品も含まれており、必ずしも「マイナー」なわけではない)。フィルムセンターはジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館から永久貸与を受けたものの、権利はワーナー系列の会社にあるなど、錯綜している。発表後、恩地元子氏からコレクションの性質、権利問題などについて的確な質問があったが、特定の個人がある種の嗜好を反映させて収集した「コレクション」というのは映画でも存在するが、この場合は該当しないとのことだった。中村氏がコメントにおいて指摘したように、こうした物(ブツ)が、製作・配給・興行という歴史的な映画産業の「コミュニケーション」を外れてアーカイヴ化され、DVDやケーブルテレビのような他のアクセス経路を持つ現代の観客を対象として、新たなコミュニケーションの文脈へと置き直されるわけだ。歴史的文脈と常に更新される現代の「発見」を媒介するコミュニケーションとしてのアーカイヴは、綿密な調査研究の能力とともに、ランダムさ、荒唐無稽さを受け容れる太っ腹を持っていなければならない。

同じアーカイヴでも、劉氏の発表は、植民地支配という非対称な権力関係の中で誰が何を記録し、分類し、保存し、誰に見せるかといういわゆる「コロニアル・アーカイヴ」の問題を扱う。門林氏も発表後のまとめで強調していたように、物語映画とも記録映画とも違うプロパガンダとしての啓民映画が、それゆえに過剰な虚構性と記録性を顕すという劉氏の主張は重要なものだ。「啓民映画」の中でも苦力の表象に焦点を当て、加藤泰監督『虱はこわい』(43)と浅野辰雄監督『煤鉱英雄』(43)のシーンを具体的に論じ、とりわけ前者で線路に沿って歩く苦力たちを捉えた移動撮影に近代的労働者の誕生と虱のような集団の無気味さの両義性を読み込む分析は水際立っていた。このような分析の繊細さを指摘したうえで「表象のポリティクス」における映像の位置づけを問う中村氏に対し、中国人による自己表象が不可能だった歴史的文脈の中で、「歪んだ鏡」としての啓民映画に重層的な権力関係の反映を見出す劉氏の立場が示された。発表終了後、北原恵氏からの興行形態・観客層についての質問への回答として、中国語・日本語の2ヴァージョンが作られていたことが明らかにされた。

具体的な対象と取りくんだ内容豊かなパネルであり、多様なアプローチを「コミュニケーション」という概念で連結することで、製作・配給・興行という映画産業のシステムに加え、映画批評・研究の言説、アーカイヴ、植民地政策など、「書き換え」を可能にするもう一つの文脈を射程に入れることの重要性が認識できたように思う。サイレント期ハリウッドの映画監督キング・ヴィダー、日本の記録映画のアーカイヴ化、アメリカ占領期のCIE教育映画と、三発表と少しずつずれながら重なる領域に関心を持ってきた中村氏のコメンテーターとしての想像力、知的機動性にも敬意を表したい。

木下千花(静岡文化芸術大学)

【パネル概要】

映画製作という、複数の人間の共同作業によって進められる営為は、様々な水準の人的交流をもたらす。それは、撮影スタジオ内における俳優や技術スタッフ等を中心としたごく一般的ものから、産業構造の変化によってもたらされる異業種間におけるもの、あるいは政治的要因によって、複数の国の間で取り結ばれる人種間・民族間の交流に至るまで多岐に渡る。こうした交流の網目の結節点として生み出されるものが映画であるとするならば、そこにはこれらの諸力の錯綜関係が多種多様な種類の表象として現れることになる。

本パネルにおいては、以上のような視座から、映画を、諸力の交流をもたらす場としてとらえ、生成される表象に織り込まれた諸力の関係を読み解くことを通して、映画作品や映画史に関する新たなアプローチの可能性を探る試みがなされる。そこで採り上げられるのは、1910年代後半から1920年代にかけてのアメリカ映画界におけるエーリッヒ・フォン・シュトロハイムの活動の事例、東京国立近代美術館フィルムセンター企画上映を通して見る1930年代のアメリカ劇映画、そして1940年代前半の満州における五族協和思想のプロパガンダ映画である。各事例は、各々地域、時代を異にしているが、ある既成の表象システムが、異質な存在との交流を媒介になんらかの変質を経験している点で共通している。各発表によるそれらの変質の諸相へのアプローチを相互に検討し、表象を解釈する新たな可能性を探ることが本パネルの目的である。

劇場化される映画史と映画作家、それらの表象を越えて
── 無声期アメリカにおけるエーリッヒ・フォン・シュトロハイムを例に
後藤大輔(早稲田大学)

アメリカにおける初期の映画史は、産業の発展に貢献した個性的な人間達の諸関係が織り成す一種の「劇場」として表象されるのが通例であり、こうしたジャーナリスティックな性質を有する映画史的表象は、‘great man theory’として以後の研究者によって批判の対象とされた。しかし、研究史が長期に渡る無声期の映画作家研究を行う上では、こうした「劇場化された映画史」の表象は一方的に排除されるべきではなく、むしろ旧来の映画史的表象の臨界点を示したものとして捉えることで、新たな歴史的解釈の経路を導出することが可能になる。

1910年代後半から1920年代かけてのアメリカ映画産業で活躍した映画監督エーリッヒ・フォン・シュトロハイムは、製作会社の管理体制との間で数々の軋轢を反復しながら、センセーショナルな内容の監督作品を発表し続けた。だが、彼のキャリアの諸相は、「芸術家」と「産業」との間の二元論的対立が展開する劇化された表象へと置き換えられることが多かった。そこで本研究発表では、まず、彼をめぐる還元論的な映画史的表象の諸性質とその限界を明らかにする。次に、そうした諸特徴と、一次資料、同時時代の批評、新旧の研究者による諸見解、製作システムに関する研究のような様々な言説等とを、歴史的に相互に関連させる分析を通じて、従来の閉ざされた映画史的表象に新たな<対話的>コミュニケーションの契機を与えることを試みる。

フィルム・アーカイヴにおけるインター・コミュニケーションの一ケース
── 東京国立近代美術館フィルムセンター1930年代アメリカ映画上映企画を通して
檜山博士(東京国立近代美術館フィルムセンター)

東京国立近代美術館フィルムセンターは、所蔵するアメリカ映画の16mmプリント・コレクションの調査成果を公開する形で、2008年から毎年度末に計3回の上映会を催し、1930年代作品を中心に、1927年から1942年までのコレクションを概観する試みを行なった。当企画を進めるにあたっては、以下のような条件により、アーカイヴでの通常のカタロギングとは異なる調査作業が求められた。

まず、厖大な要素が錯綜するこの期間のアメリカ映画を、多分にランダムな性質をもつ同コレクションに即して概観するべき点。次に、予め企画上映を行うことを前提に調査を進めるべき点。そして、上映にあたって、1930年代のアメリカ映画の歴史的展開をふまえつつ、コレクション独自の特性を示すべき点、などである。作業は困難だったが、日本未公開作も含め、上映機会の乏しい多くの作品を紹介でき、好評を得たことで一定の役割が果たされた。

本パネルでは、3回の上映サイクルを終えたことを契機に、企画全体の意図や開催意義などを問い直すと共に、作品の企画・上映という側面から、映画がもたらす別のコミュニケーションの形式を分析する。上記の諸条件は、複数の主体・言説・フィルム・観客のインター・コミュニケーションを生み出し、その成果は随時調査作業の方針に反映されていった。この一連のプロセスを分析し、それらのコミュニケーションのあり方を検証する。

満州映画協会による「啓民映画」に見る異文化コミュニケーションの表象
劉文兵(早稲田大学)

本発表は、一九三七年に発足した日本の国策映画製作機構だった「満州映画協会」により、敗戦直前まで製作されつづけた「啓民映画」(文化映画)を研究対象とする。「建国」以来の満州国の歩みを記録するもの、「満人」に「八紘一宇」の精神を叩き込むという啓蒙目的のもの、そして日本人に満州移民を呼び掛ける目的で製作したものなどが、「啓民映画」の主なジャンルを形成している。従来の日本映画史の記述において、啓民映画はたんなるプロパガンダと見なされ、学術的な検証はほとんどおこなわれてこなかった。また、中国においては、啓民映画の存在自体がカテゴリーとして認知されず、結果的に全否定されているのが現状である。そこで、本発表は、傀儡国家でありながらも、イデオロギー的には「五族協和」を標榜していたという満州国が抱える複雑な問題、とりわけ「日系人」と「満人」とのコミュニケーションという根本的な問題に着目する。すなわち、満州国の政策がたんなる宗主国側からの押し付けではなく、被植民者側の自発性に依るものでもあったという《事実》を仮構するべく、現実には存在するはずのない透明なコミュニケーションという幻想が、執拗なまでに提示されるという「啓民映画」の特徴的な側面を浮き彫りにすることをつうじて、満州国にたいする批判の視座を提供することを試みる。

後藤大輔

檜山博士

劉文兵

中村秀之

門林岳史