第1回大会報告 パネル5

7月2日(日) 13:00-15:00 18号館4階コラボレーションルーム3

パネル5:ロシアの(逆)遠近法

イコンと視覚像――パーヴェル・フロレンスキイのイメージ論/貝澤 哉(早稲田大学)
時の抜け道――ツェラーンからマンデリシタームへ/斉藤 毅(電気通信大学)
機械的なものと有機的なものをめぐって――1920年代ソ連における美術教育の試み/江村 公(大阪大谷大学)

【司会】番場 俊(新潟大学)

パネル5「ロシアの(逆)遠近法」の冒頭では、まず司会の番場 俊氏からこのパネルが意図的に「ロシア」と題された背景として、いわゆる西欧文化の外部としてのロシアの特殊性に寄りかかるのではなく、場合によってはロシアという部分をもカッコに入れ、複数の遠近法が連立する場としてロシアという領域を論じていくことの必要性が表明された。

このような問題提起の後、まず貝澤 哉氏によってフロレンスキイのイコン論に見られる反表象性が論じられた。貝澤氏によれば、フロレンスキイの解釈におけるイコンの正対する「顔」は、具体性と形而上性のアンチノミーがその強度を保ったまま展開される場であり、神と人の領域が分離されつつも触れ合う接点としての役割を果たす。さらに、同氏はイコンのグラフィックな面に言及し、他なるものの同一化としての絵画的ミメーシスやラカンの鏡像理論とは逆に、イコン制作における対象の輪郭をたどるという身体的・触覚的でパッシヴなイメージの知覚は、他者との身体の表面を介した接触という具体的・人格的な対峙を重視したバフチンの初期の思想と共通するものであると指摘した。

続く斉藤 毅氏の発表では、アクメイズムの詩人マンデリシュタームの作品を、その翻訳者であるツェラーンのラジオ・シナリオを通して逆照射する試みが行なわれた。斉藤氏によれば、マンデリシュタームの詩は頻用される様々な休止によって時間性が強調されると同時に、非日常的な未知の対話者への「思いがけない」呼びかけによって、未来の時間へと開かれている。そして今回、ツェラーンという具体的な解釈者=対話者の視点からマンデリシュタームの作品を捉えなおすことで、このような対話的時間性が浮き彫りにされたといえよう。

さらに、討議の最後に問われたロシアの特殊性の問題では、マンデリシュターム作品におけるロシア語の名詞の特異な性格がとりあげられたが、これに対しては番場氏がロシア語のヘレニズム的なコスモポリタ二ズムの伝統を挙げ、その地域的な非限定性、雑種性を指摘した。

江村 公氏は、「機械的なもの」と「有機的なもの」、さらにそのどちらでもない「無機的なもの」というモデルを用い、革命直後に新設された各芸術機関、各アーティスト=教師間でのこれらの概念に対する相違や錯綜をクローズ・アップし、1920年代のロシア・アヴァンギャルドの多層性を指摘した。これらのモデルは、発表後の討議において江村氏自身が強調したように、アヴァンギャルド文化の機械的性格の批判に基づいて形成された全体主義文化を考察する上でも、その表面的な有機性の下で進行していった社会・文化全般の機械的組織化を明らかにする重要な手段となるであろう。

発表後、番場氏はこれらの考察が共有する点として、聖骸布-写真の問題系に見られるような、記号論の範疇からは逸脱した、直接的で物理的な接触というモメントの重要性を挙げた。さらに同氏によって、フロレンスキイとマンデリシュタームにおいて、他者としての神との交流は可能であるかという質問がなされた。これに対して貝澤氏は、フロレンスキイにとってはまさにその交流可能性にこそ人格神としての意義があるのだと回答し、また斉藤氏も、マンデリシュターム-ツェラーンにおいて想定されているのはユダヤ的超越神ではなく、あくまで隣人の中に見出されうる「全き他者」なのだと応えた。

本田晃子(東京大学・院)

パネル概要

ロシアからの声は、表象をめぐる思考に新たな光を当てることができるだろうか。ロシアの表象文化論は、西欧の外部=無意識として安易に消費されるロシア像を批判することから始まらなければならない。そのうえで、なおも残る「ロシア的なもの」の特異性とはなにか。イメージの物質性・身体性をけっして手放すことなく、西洋的な表象/上演の舞台を出現/生産の現場へと変えてしまったロシアの芸術家・思想家たちを再検討する。(パネル構成:番場 俊)

「イコンと視覚像――パーヴェル・フロレンスキイのイメージ論」
貝澤 哉

20世紀初頭のロシアの宗教思想家フロレンスキイは、東方正教のイコンをもとに、独自のイメージ論を展開した。彼によれば、イコンの視覚像は写像でも記号でも代理でもない、いわばアンチ表象であり、イメージとは光学的視覚像でなく、輪郭の縁取り、つまり対象自体との人格的接触なのである。本報告では、カルサーヴィンやバフチンの触覚的身体性の問題ともつながる彼のこうしたイメージ理解について検討する。

「時の抜け道――ツェラーンからマンデリシタームへ」
斉藤 毅

パウル・ツェラーンにとって、ロシアの詩人オーシプ・マンデリシタームの作品との出会いは、自身の詩学における諸概念――詩における対話、他なるもの、時間等――を意識化する大きなきっかけになったと思われる。本報告では、ツェラーンのラジオ・シナリオ『オーシプ・マンデリシタームの詩』(1960)を出発点に、それら諸概念を、マンデリシタームのテクストにおいて再検討してみたい。

「機械的なものと有機的なものをめぐって――1920年代ソ連における美術教育の試み」
江村 公

ヴフテマスを筆頭にソ連時代の美術教育は、同時代のバウハウスと同様、新しい芸術教育の実践の場として名高いが、その内実はバウハウスに比べてもあまり知られてはいないといえる。本発表では、ロトチェンコやタトリンらによるヴフテマスやギンフクにおける基礎課程や学部でのフォルムについての理解に着目し、技術にかかわる機械的なフォルムと自然に基づく有機的なフォルムに対するアプローチを検討する。