第1回大会報告 パネル3

7月2日(日) 9:30-11:30 18号館4階コラボレーションルーム3

パネル3:鏡の背面――表象のヒューマニズム再考

自己展開するイメージ/柳澤田実(南山大学)
世界の体系――『百科全書』と普遍知の唯物論/大橋完太郎(東京大学)
コギトと表象不可能なもの/佐藤吉幸(筑波大学)

【司会】岡田温司(京都大学)

「鏡の背面――表象のヒューマニズム再考」と題された本パネルは、7月2日午前9時30分より、東京大学駒場キャンパス18号館4Fで行われた。京都大学の岡田温司氏の司会のもと、南山大学の柳澤田実氏、東京大学の大橋完太郎、筑波大学の佐藤吉幸氏の発表が行われた。

柳澤氏による「自己展開するイメージ」という発表は、プラトニズムに端を発して現在にまで至る表象理論に内在する否定神学的メカニズムを指摘しながら、偽ディオニュシオスの思考が、モデルと像の対関係とは異なる仕方で、複数の次元に媒介された世界を示すものである、と結論付けた。

大橋による「世界の体系:『百科全書』と普遍知の唯物論」は1750年前後のディドロの思想を包括的に取り上げながら、唯物論的一元論の射程と『百科全書』のプロジェクトに内包される思考とを関連づけることで、世界を力動的に捉えながら体系化していく営為を浮き彫りにしようと試みた。

佐藤氏による「コギトと表象不可能なもの:フーコーからランズマンへ」においては、『言葉と物』におけるフーコーの人間についての考察を出発点に、表象と表象不可能なものとを巡る近代以降の思考を、ランズマンの映画『Shoah』に見られる表象とトラウマとの共犯関係から批判的に捉え直そうとした。

佐藤氏の発表に関する質疑がいくつか寄せられた後、最後にパネリスト相互の意見を参照しながら議論が行われた。短い時間ではあったが、トラウマと記憶といったものに集約されがちな近代における主体的人間と表象との一義的な関係を批判的に再構築するための主題として、古代、あるいは近世の視座から提起された、複数性や運動といった概念の有効性と問題点について意見が交換された。最後にrepresentatioの概念に含まれていたactioという側面を考慮することが、表象概念を再構成する契機になりうるという観点が司会の岡田氏から寄せられ、パネルが終了した。

大橋完太郎(東京大学)

パネル概要

表象の理論には暗黙のヒューマニズムが存在しているのだろうか? 例えばハイデガーにおいては、表象を条件づける主体化の契機は、主体=基体である存在を常に要請しているように見える。そこにおいて問題となるのは、表象の条件としての人間の条件に他ならない。結局のところ、表象システムの分析は常にそれを構成する主体と関わらざるを得ず、それに対する批判も多くの場合、主体と他なるものとの弁証法的関係の記述や、あるいはそれらを「深層から」規定してきたとされる歴史的次元に拘泥することを余儀なくされる。

本パネルでは、時代ごとに異なる題材を通じて、表象と主体によって織りなされたある種の共犯関係を批判するための原理的考察を試みる。主体の眼差しが鏡面における鏡像を成立させている、と仮定してみよう。鏡の背後を思考することは、眼差す主体の中心性を相対化する。そこにおいては、表象のシステム自体が、非-人間的な現れとして定義されるかもしれない。(パネル構成:大橋完太郎)

「自己展開するイメージ」
柳澤田実

キリスト教思想において、表象は原型に類似した像であり、この像が原型の「想起」によって生じる限りにおいて、表象は主体化の契機になると言われる。ジャン=リュック・ナンシーの『肖像の眼差し』に代表されるこうした議論の立て方は、キリスト教神学が理論上依拠したプラトンにまで遡る。本発表は、こうした人間の主体が同伴する表象理解とは異なる、神的存在の自己展開としてのイメージ論を幻視者たちのテキストから再構成し、キリスト教のイメージ論のもう一つの可能性を検討するものである。

「世界の体系――『百科全書』と普遍知の唯物論」
大橋完太郎

運動するもの、例えば機械をいかに表象するか、というのが啓蒙期の思想家ディドロにおける一つの重要な懸案であるならば、知の総合的編成である「辞典」が持つ固定記述の体系的連鎖という形式は、一見それに相反するように見える。動くものに対するディドロの形而上学的欲望は、彼が編纂した『百科全書』の中でどのような形で反映されているのだろうか?『百科全書』の構成的な特徴を考慮しながら、固有の主体に還元されることを常にはみ出す「表象の運動」について考察する。

「コギトと表象不可能なもの――フーコーからランズマンへ」
佐藤吉幸

M・フーコーの『言葉と物』によれば、「人間」がエピステーメーの中心を占める近代の思考において、人文諸科学は表象の優位に支配されており、にもかかわらず、無意識という「思考不可能なもの」(表象不可能なもの)へと接近することをやめない。私たちは、矛盾するこの二つの運動をどのように捉えればよいのか。言い換えるなら、表象の優位は、なぜ表象不可能なものを要請するのか。この点を敷衍しつつ、ランズマンが極めて曖昧な仕方で用いた「表象不可能なもの」という概念を再検討し、その背後に潜むある種のヒューマニズムを見出す。