7月5日(土) 東京大学駒場キャンパス18号館ホール
13:00-15:00

パネリスト:
・透過性と身体――医学史から見る〈接触〉の問題/田中祐理子(京都大学)
・接触から震動へ――〈響き〉としての内面性の誕生/吉田寛(立命館大学)
・ヴァルター・ベンヤミンにおける二つの触覚とアナクロニスティックな時間の創設/高村峰生(神戸女学院大学)
・痕跡・距離・忠実性――聴覚メディア史における〈触れること〉の地位をめぐって/福田貴成(中部大学)
司会:
橋本一径(早稲田大学)

近代科学の成立とともに、「接触」が様々な分野でそれまで果たしてきた本質的な役割は、しだいに意義を失っていく。たとえば医学においては、病人に直接であれ、「悪い空気」にであれ、病源に触れることは伝染病の本質的な原因とみなされてきた――「伝染contagio」という語には「触れる」という意味が含まれている――が、近代的な細菌学の成立によって、「病原菌」が伝染病の原因として名指されると、接触の有無は感染を決定づける要因とはみなされなくなる。あるいは力学においても、アリストテレスの理論を現実に適合させる形で中世に練り上げられた「インペトゥス」理論によれば、物が動くためには、何らかの動因がその物に「触れる」ことによって、インペトゥスの移動が生じる必要がある。ところがニュートン以降の力学法則においては、接触が運動にとって本質的な要素とは認められなくなる。
もちろん近代以降も人々は「触れる」ことをやめたわけではない。たとえば臨床医学において「触診」が相対的に地位を落とす傍らで、メスマーの「動物磁気説」に端を発する治療法は、秘教的な代替医療として19世紀を通して命脈を保ち、この系譜をシャルコーのヒステリー療法、さらにはフロイトの精神分析にまで結びつけることも可能である。あるいは19世紀の文学においては身体が突如として肉体的な存在感を持つものとして描き出され始める。同様のことはマネの《オランピア》に象徴される印象派絵画や、あるいは身体をキャンバスに直に「接触」させて描かれた、イヴ・クラインらの作品にも言うことができるのかもしれない。
しかしながら「接触」について語ることの困難がいや増すのは、むしろここからである。〈科学〉の中で行き場を失くし、異端者となった「接触」が、文学や美術において日の目を見たのだと述べるとすれば、視覚を頂点とする西洋文化と、そのオルタナティヴとしての触覚という、安易な二項対立に陥ることを免れないからだ。このような二項対立はおそらく、精神と身体という古典的な二項対立の変奏でしかない。
いかにすれば、このような隘路に陥ることなく、「接触」を問題にすることができるだろうか。「音」の問題がその手がかりを与えてくれるだろう。19世紀に音の振動理論が発達することによって、声や音楽などに分岐していた音は、すべて振動に還元されるとともに、音は鼓膜を震わせる物理的な実体として理解されるようになった。つまり音は「触れられる」ものとなったのである。言い換えれば、音は「接触」可能なものとして表象されるようになったのだ。このように「接触」を、感覚の問題としてではなく、表象の問題として捉え直すことによって、文字通り手垢がついたかにも見える「接触」という主題に、新たな展開を促すことが可能となるだろう。近代は「接触」をどのように表象してきたのか、あるいはどのようなものを「接触可能なもの」として表象してきたのか。問われることになるのは、遠ざかりつつ触れる、あるいは目に入るほどに近づきつつ見る、というような、矛盾した経験である。