7月6日(日)14:00-16:00
駒場キャンパス18号館4Fコラボレーションルーム2

・アンリ・メショニックにおける演劇性の概念――新たなる声としての「オラリテ」を翻訳するために/森田俊吾(東京大学)
・目と耳のあいだ――ベルナール・ハイツィックにおける応答としての声/熊木淳(早稲田大学)
・外部の声――レトリスム映画における音声の役割について/門間広明(早稲田大学)
【コメンテーター】鈴木雅雄(早稲田大学)
【司会】星埜守之(東京大学)


パネル概要

20世紀以降、伝達技術の多様化によってあらゆる芸術分野において声に大きな役割が付与されることになった。しかしそれぞれの分野や制作者において、その声の担う役割は様々である。例えばダダイストたちにおいては、声はページから詩を伝達する役割を奪い新しいメディアとしての地位を獲得することを目指すだろう。またアルトーは演劇において声および息を俳優の内面と外部とを結ぶ紐帯として練り上げ、独特の叫びの概念を作り出すだろう。だが単に声は何かを伝える媒介として機能するだけではない。例えばライヒの「It’s gonna rain」やシュトックハウゼンの「少年の歌」におけるように、声は何らかのメディアによって伝えられる内容そのものとなるだろう。このように、20世紀以降の芸術の各分野において声はそれがもつ情報伝達というそれまでの役割から大きく逸脱して、独特の位置を占めるようになったのである。
本パネルでは以上のことをふまえ、演劇、詩、映画の各ジャンルにおいて「メディアと(しての)音声」の役割を明らかにしていく。森田はアンリ・メショニックにおける口承性が「演出すること=翻訳すること」を通じていかに演劇性と結びつくかについて、熊木は音声詩の詩人であるベルナール・ハイツィックにおける声とテクストの共犯的な関係について、そして門間はイジドール・イズーをはじめレトリストたちの映画における音声が担う独特な役割について検討する。

アンリ・メショニックにおける演劇性の概念――新たなる声としての「オラリテ」を翻訳するために/森田俊吾(東京大学)

アンリ・メショニックは、主体が語る言葉の運動を組織する「リズム」をいかにして翻訳すべきかという問題に取り組み、その実践としてヘブライ語聖書をフランス語に翻訳してきた。この翻訳では、これまで音声の支配下にあったリズムの概念を根底から問い直し、リズムを音声/意味の二元論から解放することが目指されている。しかし、こうしたリズムの再現のために施された破格構文や空白の多用といった、実験的手法への評価は今なお定まっていない。それゆえ、1995年と2005年にメショニックの翻訳した聖書がクロード・レジによって上演されたことは、リズム翻訳の可能性を問い直す鍵となりえよう。同時にメショニックの翻訳における演劇というこれまで論じられてこなかった問題系も浮かび上がる。メショニックの演劇論にはアントワーヌ・ヴィテーズに関するものがいくつかあるが、ヴィテーズの提唱する「上演=翻訳」という定式はメショニックの翻訳論やその実践と決して無関係ではない。
本発表では、メショニックの考える「演劇性」という概念を明らかにした上で、リズムが全面化した状態である「オラリテ(口承性)」という新たな「声」がどのように翻訳されるかを明らかにする。ヘブライ語聖書における「声」が翻訳され、そこで生み出されたテクストの「声」が演出=翻訳によって再現されるとき、われわれは複数の主体が発する重層的な「声」に耳を傾けることができるだろう。


目と耳のあいだ――ベルナール・ハイツィックにおける応答としての声/熊木淳(早稲田大学)

声とは何かを伝えるメディアであり、また同時にメディアによって伝えられるその内容でもある。ダダイストからレトリスト、そしてアンリ・ショパンに至るまで、前衛詩の主流においては、声をそれが伝えるべき言葉やその意味に従属するものと見なさず、むしろ声そのものの表現をめざした詩的実践が行われた。
このような文脈の中で、フランソワ・デュフレーヌに続いてフランス音声詩を担うことになるベルナール・ハイツィックはこの声の絶対性とでもいいうる傾向に必ずしも同意しなかった。声の自立性を主張する前衛詩人たちはしばしばテクストを放棄しようとするのに対し、ハイツィックはむしろ声とテクストとの間に共犯関係を見出し、両者の間に新たな関係を打ち立てようとした。ハイツィックの詩の大きな特徴は、その音声詩という名付けにも関わらずテクスト、その視覚詩的な側面を重視しているという点である。彼の詩はまず最初にこの視覚詩が提示され、対応する音声がそれに続く。視覚詩自体が線的に展開する詩でない以上、一般的な意味での朗読は不可能である。ハイツィックが目指すのはそのことで引き起こされる多感覚性であり、目と耳との間の知覚のずれである。本発表では、音声詩へといたる問題意識の中でこの詩人が実現しようとしたテクストと声との独特な関係を指摘し、彼が目指した知覚のずれがいかなるものであるかを明らかにする。このことによって、現代詩におけるメディアとしての声のもつ意義、他のメディアとの関係を問いたい。


外部の声――レトリスム映画における音声の役割について/門間広明(早稲田大学)

レトリスムの創始者イジドール・イズーは、映像と音声の同調を破壊する「ディスクレパン映画」を提唱したが、実際には、これまでの映画では映像に音声が従属していたという認識から、映像から音声を解放するという方向性が強く打ち出されている。このことはイズーのフィルム『涎と永遠についての概論』にも確認できるが、それに続いてジル・J・ヴォルマンの『アンチコンセプト』およびギー・ドゥボールの『サドのための叫び』という二本の「映像のないフィルム」が制作されたこと、またイズーが「フィルム‐デバ」、すなわち観客たちの議論のみからなるフィルムを提唱したことも、この流れにおいて理解できる。
しかし、そのとき音声はある両義性を帯びている。一方では、レトリスム映画における音声の特権化は、声こそがもっとも原始的な感情の発露であるという一種のプリミティヴィズムに基づいている。しかし他方で、イズーは映画において音声が後から/外から付け加えられたものであるという事後性/外部性に着目し、それを際立たせるような仕方で音声を用いることを提唱している。これはつまり、運動の記録としての映画(シネマトグラフ)には本来備わっていなかった音声を映画の主役へと転じる戦略である。そのとき音声は、解放されるべき原始的なものというより、後からやって来て映画に寄生し、最終的に映画そのものを乗っ取ってしまうものとして立ち現れる。イズーから離反した後のドゥボールの映画もこの観点から考えてみることができるだろう。