日時:2013年11月9日(土)
場所:東京大学駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム1
午後 16:00-18:00

・宮﨑裕助(新潟大学)「芸術の過去性と物質性──ポール・ド・マンのヘーゲル美学読解における記憶の問い」
・三原芳秋(同志社大学)「de Man de-manned——生態学的視点からド・マン再読を試みる、ならば」
・吉国浩哉(東京大学)「断絶と移行──ポール・ド・マンの翻訳論」
コメンテーター:土田知則(千葉大学)
司会:宮﨑裕助

脱構築批評の領袖ポール・ド・マン(1919-1983)の死後、ちょうど30年が経とうとしている。昨年長らく未訳だったド・マンの二つの主著『盲目と洞察』(1971年)と『読むことのアレゴリー』(1979年)の日本語訳がついに公刊され、今年は雑誌特集(『思想』2013年7月号)が組まれるなど、にわかに「ド・マン・ルネサンス」ともいうべき状況が生まれつつある。人文学の理論が退潮してきたこの四半世紀を経て、ポストセオリーの混沌と予兆のなか、ド・マンの仕事はいま、どのような視点から読み直されるべきなのか。文学・哲学・思想史等の多彩な領域で活躍している三人の論者の発表に加え、『読むことのアレゴリー』の訳者土田知則氏をコメンテーターに迎えて、ド・マンの思考の来たるべき諸可能性を探る。

宮﨑裕助(新潟大学)「芸術の過去性と物質性──ポール・ド・マンのヘーゲル美学読解における記憶の問い」

ヘーゲルの美の有名な定義に、美とは「理念の感性的な現れ」だというものがある。それによれば、芸術こそが「美しい技術」としてその現れを成就すべきものとなる。他方、こうしたヘーゲル美学が問題含みなものとなるのは、芸術がわれわれにとって過去のものとなったという歴史的主張を含んでいるからである。これは、芸術終焉論として広く知られ、美学や芸術の思考を引き受けようとする者にとって、いまなお検討されるべき問いのトポスであり続けている。
ポール・ド・マンは亡くなる前年の1982年に発表した論文「ヘーゲル『美学』における記号と象徴」(のち『美学イデオロギー』所収)で、ヘーゲル『エンツュクロペディ』における記号と象徴の区別を取り上げ、言語論的観点から芸術終焉論の含意を新たに解釈してみせた。それは一言でいえば、芸術の契機を、歴史的段階を経て終わったのではなく、いわばアプリオリに過ぎ去っていた「過去」とみなす解釈であった。
こうしたド・マンの再解釈は、ヘーゲル美学の理解としてあまりに逸脱的であり、哲学者から厳しい批判を招くことになった。問題はしかし、ド・マンのヘーゲル解釈を単なる誤読として斥けることではなく「誤読」ゆえに可能になった議論の賭け金を見極めることである。本発表は、以上の経緯を踏まえたうえで、ド・マンにおける芸術/テクネーの思考の所在を、記憶、機械、物質性の問題系に位置づけ、ド・マン自らが十分に展開しえなかった議論の射程を探ることを試みる。


三原芳秋(同志社大学)「de Man de-manned——生態学的視点からド・マン再読を試みる、ならば」

「人間(主体)」の枠組を取り払い、人文学を「言語の牢獄」から解放するという「生態学的転回〔ecological turn〕」なるものを想定してみると、(人間が書いたに違いない)「テクスト」を(おそらく人間 ― それも、高度な識字能力を有する (de) Manのみ ― が)「読むこと」にほぼ排他的な価値を見いだしているようにみえるド・マンの「理論」は、はなはだ都合の悪いもののようにも思える。他方で、「言語の底に『非人間的』ななにかがある、という確信」(バーバラ・ジョンソン)のもと個別テクストを徹底的に「読む」実践の末にド・マンが到達する「物質性」「機械性」といった概念は、「生ける主体からの独立または切断」(デリダ)という点で、「生態学的アプローチ」への親近性をうかがわせるものであり、さらにいえば(逆説的にも)「生命論」的射程をも持つものであると予感される。
以上のような予感を抱きつつ本発表では、ド・マンによる個別テクストの「読み」をいくつかとりあげ、それらを生態学的視点によって/として「読む」(=「ド・マン-機械」の作動を検証する)ことを試みる。具体的には、人間になること/非-人間になることの境界事例を扱っているともいえる、anthropomorphism, prosopopeia, apostoropheなどの喩法をめぐる一連のテクスト読解が対象となるであろう。さらに、これらの「読み」が、フェミニズム-機械(ジョンソン)やポストコロニアル-機械(スピヴァク)といった「第二局面」の「読み」へと接続/切断されることも意識しつつ、ド・マンをいま、ふたたび読むことの意味について考えてみたい。


吉国浩哉(東京大学)「断絶と移行──ポール・ド・マンの翻訳論」

本発表は、ポール・ド・マンによる「翻訳」の概念を、「出来事」、「物質性」、「移行」など、彼の晩年に展開された理論との関連で考察するものである。
晩年のド・マンの仕事は美的なもののイデオロギーの批判に集約されるだろう。それは、芸術に典型的にみられる「美的なもの」というカテゴリーにおいて、本来はお互いに両立不可能な多様で異質なものたちが結びつけられ、一つの全体へと統合されてしまう、そのような「接合原理」である。そして、このような接合原理としての美学イデオロギーが、芸術の随所で破綻していることを示すのが、ド・マンの企図である。
しかし、この破綻にのみ注目してしまうと、ド・マンによるイデオロギー批判は、その破壊的な側面のみが強調されることになる。たしかに、美学イデオロギーは、異質なもの同士を暴力的に結合させるのであるが、その全体性への志向において、「意識」、「認識」、「人間」といったカテゴリーの可能性の条件ともなっているので、この「接合原理」なしでは、全ては一切の関係性を失い、個々ばらばらな存在となってしまうのだ。
これに対して、本発表は美学イデオロギーとは違った仕方での関係性のあり方を、ド・マンの晩年の思索から導き出す試みである。そのときに鍵となるのが、「カントとシラー」で言及されている「移行」の概念である。そうすることによって、断絶だけではなく、最低限の「接点」ならびに、未来の可能性としてのド・マンの翻訳論が見えてくる。