日時:7月8日(日)16:30-18:30

・「生の美学」における身体性──「身ぶり」の観点から/武田宙也(京都造形芸術大学)
・「Con-temp-l’azione 観想=行動」──アルテ・ポーヴェラによる「プラクシス」についての一考察/池野絢子(日本学術振興会)
・アパートと郊外──ソヴィエトにおける「アンダーグラウンド」芸術の実践/河村彩(早稲田大学)
【コメンテーター】金井直(信州大学)
【司会】鯖江秀樹(立命館大学)

パネル概要
近年、現代芸術の世界において、鑑賞者の積極的な参加へと開かれた相互作用的(インタラクティヴ)な作品が流行をみせている。これらの作品をめぐる一連の議論は、いずれも「関係性」というキーワードを通じて、芸術に対するわれわれの生の関与を前景化していると言えるだろう。しかし、仮にこうした状況を、芸術にかかわる主体の「実践」という観点から考察するならば、それはけっして新しいものではないことがわかる。
イタリアの哲学者マリオ・ペルニオーラは、とりわけ二〇世紀の前衛芸術において、生産物としての芸術作品以上に、むしろ芸術活動自体に優位性が移っていったことを指摘している。本パネルでは、このような事態を「ポイエーシス(制作)」の次元から、「プラクシス(実践)」への転換として捉えたい。そこで問題になるのは、芸術制作における作者の「身ぶり」や「行動」であり、そして、そこにかかわる諸主体の関係性のダイナミズムである。
このように芸術を、それに関わる、あるいはその条件となる生の様態から出発して考察するならば、それは必然的にさまざまな主体間の社会的実践を含む、いわば広義の「政治的なもの」へと送り返すことになるだろう。本パネルは、以上のような観点から、現代芸術における「プラクシス」の様々な様相を、美学と政治が分化する以前の地点から明らかにしようと試みるものである。(パネル構成:池野絢子)

「生の美学」における身体性──「身ぶり」の観点から/武田宙也(京都造形芸術大学)
マリオ・ペルニオーラやピエトロ・モンターニといった美学者たちが強調するように、現代の美学においては、「生」というトポスにますます重要な意味が与えられるようになってきている。実際ペルニオーラは、とりわけ20世紀以降の美学の中に「生の美学」とでもいうべき潮流を見出し、その意義を仔細に検討しているし、一方でモンターニは、現代の技術の問題を参照しつつ、美学というカテゴリーをいわゆる「生政治」の賭け金として提示する。
こうした文脈を背景としたとき、たとえばミシェル・フーコーが晩年に取り組んだ「生存の美学」、すなわち日常的な行為の積み重ねによって、みずからの生を素材として、作品としての自己をつくりあげていくような生のあり方もまた、その重要な参照点のひとつとして浮かび上がってくるだろう。
「生存の美学」においては、身体実践が自己の形成の構成要素とされているが、そこで日常的な身体実践と「生存の美学」との関係は、具体的にはどのように理解することができるだろうか。言い換えるならば、それらの実践をエステティックといいうるのは、いかなる意味においてなのだろうか。発表では、こうした問いから出発しつつ、芸術と生の間という問題について、「身ぶり」の観点からせまりたい。

「Con-temp-l’azione 観想=行動」──アルテ・ポーヴェラによる「プラクシス」についての一考察/池野絢子(日本学術振興会)
インスタレーションからパフォーマンス、メディア・アートなど、多角化する現代芸術の状況にとって、一九六〇年代末の造形芸術において生じた変化が歴史的に重要な転換点となったことは言を俟たない。とはいえ、芸術の「脱物質化」と称されるこの現象は、作品の概念化や用いる媒体・手法の拡張に留まるものではなく、作品・作者・観者の関係性自体をも大きく変容させたように思われる。
その変容が孕む美学的にして政治的な射程を、本発表ではイタリアの芸術運動アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)のうちに探りたい。アルテ・ポーヴェラは、しばしば日常的で粗末な「もの」を用いる芸術として理解されてきた。実際、彼らは産業廃材などの「もの」に、「豊かな社会」の枠組を逸脱する新しい可能性を見いだしたのだが、その一方で、当時の前衛芸術一般に共通する、概念化や行為への強い志向を示してもいた。一見して矛盾するようにも見える彼らの制作において、むしろ問題になるのは、「もの」自体さえも制作のプロセスや行動の一部であるかぎりにおいてはじめて意味をもつような、実践=プラクシスの次元ではなかっただろうか。
本発表では、多岐にわたる彼らの作品を「行動〔azione〕」の側面から解釈し、そこに賭けられた、芸術と生の境界の撤廃やさまざまな主体の参与をめぐる力学を浮き彫りにする。それにより、六〇年代末の芸術の変化が孕む、美学的・政治的位相の一端を明らかにすることを試みたい。


アパートと郊外──ソヴィエトにおける「アンダーグラウンド」芸術の実践/河村彩(早稲田大学)
1930年代以降ソヴィエトでは社会主義リアリズムが唯一の公式な芸術の様式とされ、芸術家たちは芸術家協会と検閲を通して、作品の内容のみならず材料や発表の場をも国家から管理されていた。1953年のスターリンの死は芸術家たちにも一時的な自由をもたらし、ポロックなどの西欧絵画とアヴァンギャルドの影響を受けた実験的な絵画が制作されるようになる。しかし、1962年にフルシチョフがこれらの芸術家たちを反ソヴィエト的と批判すると、彼らは活動の場を完全に「アンダーグラウンド」に移行し、逆に非公式芸術活動が開花する結果となった。
ギャラリーや美術館などの展示の場を持たない彼らは、仲間の芸術家や比較的自由に行動できた外国人などの親しい友人を招待して、自分のアパートで作品を公開し、郊外でパフォーマンスを行った。彼らは正規の芸術制度から排除されたことにより、自然を場とした制作(「運動」グループとインファンテ)、パフォーマンスおよびアクション(「集団行為」グループ)、言葉とコミュニケーション行為(「医療解釈」グループ)、タイプされたテキストや手描きイラスト、ブリコラージュ的インスタレーションといった身近な素材の使用(カバコフ)など、多様な表現へと向かうこととなった。
本発表では1970年代から90年代のソヴィエトの「アンダーグラウンド」を考察し、公的な芸術領域から排除されることによって、これらの芸術活動が日常的な行為や生活実践に接近する様相を明らかにする。