日時:2010年11月13日(土) 13:30-16:00
会場:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2

・松本由起子(北海道医療大学)「家庭における女性の消費とエネルギーの拘束──1870-80年代英国中産階級とフロイト初期経済理論から」
・岡田尚文(学習院大学)「H・G・ルイス『血の祝祭日』(1963年)における女性の身体表象」
・宮本明子(早稲田大学)「鏡の中の紀子──小津安二郎『晩春』における「杜若(かきつばた) 戀之舞」
・遠山いずみ(立教大学)「「セルフ・ポートレート」における「わたし」イメージの生成──松井冬子の作品に描かれる「自傷」の身体を通して」

司会:香川檀(武蔵大学

松本由起子(北海道医療大学)「家庭における女性の消費とエネルギーの拘束──1870-80年代英国中産階級とフロイト初期経済理論から」
 1870-80年代イギリスでは、中産階級家庭のインテリアの語る力が高まっており、限られた空間に一定の家具セットを一定のパターンで配することが、非常に多くの意味を持ち得た(サッド・ローガン)。これは大英帝国の経済力が支える消費文化の質と量のおかげだが、大陸先進諸国と比べて家庭的であることdomesticityというイデオロギーが強かったためでもある。
中産階級の文化を主導した都市中産階級は、独立不可侵の家を希求しながら土地を所有することができず、テナントでしかありえなかった。彼らの家のインテリアは、法的に夫の保護下に置かれ財産を持てない妻が、消費者として構成する(シャロン・マーカス)。一時的所有者でしかないこと、制度的に所有から排除されていたことは、消費の語る力をむしろ強化していた。
砂糖、お茶、陶磁器といった外来品が、家庭で女性性を経ることによってhomelyになる経緯は、「お茶」という制度に見られる。家庭的女性性は、異質なものを取り込む回路になっていた。技術革命としての産業革命以前に、商品市場の誘惑に応えて家庭内が再編されたことこそが革命の原動力だったなら、女性の消費は、未知の外界を商品市場に変える原動力でもあった。
本発表は、この時期に、フロイトがヒステリーの中産階級女性の語りから、自由に移動するエネルギーの一時的拘束や放出を捉えようとする経済理論を生み出した理由を、女性と消費の観点から示す。


岡田尚文(学習院大学)「H・G・ルイス『血の祝祭日』(1963年)における女性の身体表象」
 本報告では、ハーシェル・ゴードン・ルイス監督の『血の祝祭日』における女性の身体のあり方を検証する。この低予算独立映画は、1963年にアメリカのドライヴ=イン・シアターで公開されて人気を博し、他国でも80年代の「スプラッター映画」ブーム以降、当該サブジャンル映画の嚆矢としてその存在を知られるようになった。映画・表象文化論研究は、しかし、本作を殆ど顧みてこなかった。そこで本報告は、まずこの作品を映画史(恐怖映画史)の中に位置づけることによって表象研究の俎上に載せる。
 さて、僅かながらに存在する従来の批評的言説にあって、『血の祝祭日』はアルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(1960年)との影響関係を指摘され、比較されてきた。ところが、後者が犯人探しを主要な目的とする「フーダニットもの Whodunit 」であるのに対し、前者がいかに殺人が行われたかを開示する「ハウダニットもの Howdunit 」である点については看過されがちであった。『血の祝祭日』はそこにおいてこそ後発のスプラッター映画に決定的な影響を与えることになったと考えられるにも関わらずである。即ち、「ハウダニット・ホラー」としての当作は、刃物によって切り刻まれた女たちの身体を大量の血糊と共に画面上に提示することを最大の目的としているわけで、本報告ではそのことを明らかにする。また、そのとき、彼女らの身体は、撮影時のアメリカ(シカゴ)の文化的社会的状況を反映せずにはいない。これについても映画史的状況を鑑みつつ検討する。


宮本明子(早稲田大学)「鏡の中の紀子──小津安二郎『晩春』における「杜若(かきつばた) 戀之舞」
 小津安二郎監督の映画『晩春』に、紀子と父周吉が能の「杜若 戀之舞」を鑑賞する場面がある。「戀之舞」とは、通常の「杜若」に時として付される小書(特殊演出)である。「戀之舞」が付されることによって「杜若」上演中にシテが橋掛に歩み寄り、水鏡にその姿を映して在原業平を偲ぶ場面が加わる。
能の演目は台本完成時には決定しておらず、能楽師らが台本を検討し提案した。当時、小津と話し合いを重ね『晩春』に出演した金春惣右衛門氏によれば、『晩春』が「恋物語」であること、さらに「戀之舞」を付す演出上の効果からこの演目を提案すると小津は気に入ってくれ、実際に「戀之舞」の部分を撮影していたという。だが映画『晩春』には、クレジットにも「杜若 戀之舞」との表記がありながら、画面にその「戀之舞」が登場しない。この理由については、撮影時の資料が乏しいこともあり明らかにされてこなかった。
一見矛盾するようにみえて、じつは小津がそれを「気に入っ」たことが、「戀之舞」が画面に現れないことに通じるように思われる。というのも、登場しない「戀之舞」と演出上重なる「鏡」の場面が『晩春』の結末に認められるからである。「戀之舞」はこの場面との重複を避けるために隠されたのではないか。本発表では「杜若 戀之舞」を手掛かりとして、それが画面に現れない理由、さらに小津の他の作品における鏡とは性格を異にしている『晩春』の「鏡」の表象・効果を考えてみたい。


遠山いずみ(立教大学)「「セルフ・ポートレート」における「わたし」イメージの生成──松井冬子の作品に描かれる「自傷」の身体を通して」
 線を引くことは、分けること/分かることに根差し、区別することによって理解を引き出そうとする試みと考えられる。また、画面の中に引かれた線は、デリダに従えば「わたし」の眼差しと指先が世界に触れた軌跡といえる。
とするなら、「セルフ・ポートレート」において描くことは、自分と他者を分け、その対比によって両者を知り、「わたし」と世界の形を出現させていくことではないだろうか。自分の身体を正確に写す輪郭線を引くことは、身体の稜線を辿ることに他ならず、目-指先の仕事となる。
「見る」・「触れる」という眼差しの営みが「わたし」と世界を立ち上げていく過程を、ルチオ・フォンタナおよびジャコメッティの作品から観察する。そして、「わたし」への欲望・オブセッションとして、「セルフ・ポートレート」における輪郭線が生成されていく様を、松井冬子の作品を例にトレースする。その際、眼差しと目、眼差しが描く線、分裂・増殖した目と線である網目というような相の出現を、ドゥルーズのいう「器官なき身体」、「パラノイア」/「分裂症」、「リゾーム」などのキーワードを参照しながら考察する。
 松井の作品は話題が先行している。だがその画面は、絹本の肌理に入り込むような薄塗り・肥痩のない線が淡々と繰り延べられ、形を結びつつ解き「わたし」を背景から切り出す営みによって成っている。デリダが語る盲者の指先とその素描を松井の作品に見出すことができないだろうか。
また、「セルフ・ポートレート」である作品に、どうして自傷の身体をあらわさなければならないのか。自傷の絵が「トラウマ絵画」か否かよりも、身体を切り込むという表現の根底にあるオブセッションに注目する。