日時:2010年11月13日(土) 9:30-12:00
会場:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム

・志村三代子(早稲田大学演劇博物館)「戦時下の〈女子〉「生産増強」映画──黒澤明の『一番美しく』をめぐって」
・森平崇文(早稲田大学演劇博物館)「雑技の社会主義的改造──中国雑技団を中心に」
・劉文兵(東京大学)「映画監督木下恵介と中国──『二十四の瞳』から『戦場の固き約束』まで」

司会:貝澤哉(早稲田大学)

志村三代子(早稲田大学演劇博物館)「戦時下の〈女子〉「生産増強」映画──黒澤明の『一番美しく』をめぐって」
 本発表の目的は、『一番美しく』(1944年、東宝、黒澤明監督)のなかで描かれた女子挺身隊員による「生産増強」のテーマを精査することによって、女子集団労働における女性の身体と、(カメラ)レンズと戦争表象との関係を検証することである。
 黒澤明の第二回監督作品である『一番美しく』は、戦局が逼迫してきた1944年当時もっとも重視された「生産増強」を目的に製作されたプロパガンダ映画であり、情報局の「国民映画」に指定された。この作品は、黒澤明のフィルモグラフィーのなかで注目されることはほとんどないが、アジア・太平洋戦争下で組織された女子勤労動員組織である女子挺身隊を取り上げており、男性を主人公に据えた作品が圧倒的に多い黒澤映画のなかでは特異な地位を占めている。
 『一番美しく』は、俳優たちが、実際に稼働していたレンズ工場の生産作業の場に組み込まれ、撮影が進められた結果、セミ・ドキュメンタリー的な効果を上げることに成功した作品として知られているが、本発表では、このセミ・ドキュメンタリー的な映像が、現実の戦局の悪化にリンクしている点に注目する。また、戦闘機の照準機の部品と考えられる「レンズ」と、目盛修正室に勤務する主人公の視点の関係に着目することによって、戦時下の国策映画にあらわれた新しい身体である「女子の集団労働」と、レンズを通してみた「戦争」と「映画」との相関関係を考察する。


森平崇文(早稲田大学演劇博物館)「雑技の社会主義的改造──中国雑技団を中心に」
 雑技とは曲芸・マジック・ものまね等多種多様な芸能の総称であり、中華人民共和国成立直後に、時の総理周恩来によって命名された。中国雑技団は1950年に建団されて現在も活動中の、中央政府管轄で中国を代表する雑技団である。「雑技」と命名される以前、大きな分類として曲芸に相当する「技術」とマジックに相当する「魔術」の名称があったものの、総称以上に各個別ジャンルの名称の方が一般的であった。また公演形式も一人のものから一家・一門によるものまで多岐に渡っていた。本発表は1949年の中華人民共和国成立を境に、雑技に含まれる諸芸能が社会主義体制下に組み込まれていく過程を、中国雑技団を中心にして、主に組織化・演目の変化・海外公演の3つの側面を通じて考察することを目指している。
 組織化の考察においては、それまでの個人・一家・一門が個別的に競合していた状況から、政府主導の下その能力別によって各雑技団に編成されていく過程を、1950年の中国雑技団成立を中心に検討する。演目の変化の考察においては、それまでの見世物的・大道芸的な雑技に代わり、新たに成立した社会主義社会に相応しい作品として創作されたものを主たる対象とする。そして海外公演の考察においては、雑技団とその公演が中国政府を代表し、文化外交使節として重要な役割を果たした点を、1950年代の中国雑技団による海外公演を例にして検証する。

劉文兵(東京大学)「映画監督木下恵介と中国──『二十四の瞳』から『戦場の固き約束』まで」
 『カルメン故郷に帰る』(1951)『二十四の瞳』(1954)『女の園』(1954)『喜びも悲しみも幾年月』(1957)に代表される木下恵介監督は、中国とのパイプが太い日本の映画人のひとりであった。彼は戦時中に軍人として中国戦線へ送られ、かの地での戦争体験が、戦後の木下作品の原点の一つとなった。結果、彼は新中国建国後の一九五六年に『二十四の瞳』を携えて訪中し、中国の映画人と積極的な交流をもつに至る。そして、この関係は終生つづいた。たとえば、一九七七年に吉永小百合とともに日中文化交流協会の映画人代表として訪中したこと、または木下監督の最後の作品、つまり五〇本目の作品であるはずの『戦場の固き約束』(1988)が日中合作映画として製作される予定であったという経緯をみれば、木下と中国との親密な関係は明らかであろう。
 本研究は、木下恵介の実弟に当たる音楽家の木下忠司氏、元助監督の山田太一氏、横堀幸司氏、本木克英氏、プロデューサーの脇田茂氏、中国との合作映画のコーディネーターを務めていた原英一(故)の息子・原和夫氏にそれぞれインタビューをおこなうことをつうじて、木下と中国との関わりを明らかにするとともに、一九五〇年代から八〇年代に至るまでの日中映画交流史の流れを新たな視点から捉えなおす。