日時:2007年7月1日(日)13:00 - 15:00
会場:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1

・国家理性、啓蒙、敵−−丸山真男の福沢諭吉/金杭(東京大学)
・仮構される内発性と国民文学―漱石の18世紀英国小説論を読み返す/武田将明(法政大学)
・二つの啓蒙―『百科全書』と『百科全書教導説』/大橋完太郎(東京大学)

【コメンテイター】李孝徳(東京外国語大学)
【司会】松浦寿輝(東京大学)


近代とは自己自身によって外部を絶えず再我有化する運動である、と仮に定義することが可能であったと
しても、それでもなお、近代それ自体への問いは、単なる弁証法的なプロセスの図式的理解にとどまらず、複数的な秩序へ向けて開かれなくてはならない。「開化 civilization」と「啓蒙 enlightenment」という二つの理念は、複数の弁証法が同期した時代の解析へと向けられた鍵概念である。両者は、相対的でローカルな価値の確立と、合理的で技術的な知の体制とを目指す二つの異なるノモスとして、近代を読み解く参照項となる。

本パネルは、検討する共通のフィールドとして、近代初期の日本、正確には明治期の日本の諸言説を設定した。近代日本における言説空間は、文学・政治・学問(あるいは芸能なども含まれよう)の混交によって形成され醸成されてきたものではあるが、そこにおいては既に、様々なる外部(もちろんこれは、単なる「外国」にはとどまらない)が封入され、混じりあっている。こうしたものの読解においては、諸言説を常にある種の緊張関係の内で読み解く試みが必要とされるだろう。言わばこのパネルは、明治期の表象空間を現出させる前段階として、その頑迷固陋な言説空間に分け入りつつ、いくつかの文脈からそれを解きほぐそうという試みである。自ら開きつつ閉じていく開化の原理と、照明を目指しつつ消えていく啓蒙の原理との関係を複数の言説の交錯から読みとりつつ、近代日本を理解するための補助線を思考することを、発表や議論を通じて探求してみたい。(パネル構成:松浦寿輝・大橋完太郎)

国家理性、啓蒙、敵−−丸山真男の福沢諭吉/金杭(東京大学)

青年期から最晩年に至るまでの福沢諭吉解釈において、丸山真男の基本的関心は福沢の 「啓蒙」 だったと言える。そして丸山によると、福沢諭吉の啓蒙は何よりもまず国家の独立を目指すものだった。儒教批判や文明開化など福沢諭吉の思想を彩るさまざまなテーマは、すべて日本の 「独立自尊」 に収斂されるというのである。だが福沢諭吉は単に国家の独立のみを声高に主張したのではない。福沢は 「個人主義者たることにおいて国家主義者だった」 からだ。丸山の福沢解釈はまさにこの一言に縮約されていると言って良い。つまり丸山は、福沢の思想に現れた個人と国家の弁証法的相関に、近代日本における啓蒙の一展開を汲み取ろうとしたのである。こうした丸山の解釈はさまざまな批判に直面してきた。日本の植民地支配と侵略を肯定し、帝国主義的な世界秩序を不可避のものとしているのではないか、という批判である。だがこうした批判のなかで、丸山による近代日本への容赦のない解剖は、彼の思想に内在する論理的な回路によって位置づけられることなく、ナショナリストという価値判断から下される外在的な嫌疑によって裁断されてきた。それゆえ丸山真男の福沢解釈を論じる際に必要なことは、彼の近代日本批判のなかでいかに福沢解釈が論理内在的に位置づけられるか、ということであろう。今回の発表ではこのような作業を通して、丸山が見出そうとした明治期啓蒙の系譜とその限界を明らかにしたい。


仮構される内発性と国民文学―漱石の18世紀英国小説論を読み返す/武田将明(法政大学)

漱石によって提示された近代文化の内発性と外発性という概念によれば、必要に迫られて急速に近代化を推し進める日本の開化は外発的であり、自然に反しているが、必然的な手順を踏んで近代化を成し遂げている西欧の開化は内発的ということになる。漱石は日本の開化における問題をこのような論理で指摘したが、漱石が留学して学んだ英文学にしても、それ自体内発的に発展したものとは言い難い。
一般に英国近代小説の祖と目されているダニエル・デフォーの時代、実際にはフランスをはじめとする大陸から深い影響を受けた小説がイライザ・ヘイウッドなど女性作家によって多数書かれ、広範な読者を得ていた。しかるに、19世紀初めから現代に至るまで、デフォーを祖とする内発的な「英国小説史」が作られ、英米の言説を支配してきた。それは決して同時代的な根拠をもつものではなく、後の時代に捏造されたものである。

近代日本文化の外発性に屈折した思いを抱いた漱石は、他方で英国文化の内発性を仮構したデフォーの作品に厳しい評価を下している。それに対し、他者との出会いを大きなテーマの一つとするスウィフトの『ガリヴァー旅行記』には肯定的なのは興味深い。本発表は、内発性の仮構というイデオロギーを軸に、英国近代小説史と比較しつつ、近代日本で小説が国民性と接続される過程に一つの見通しを与えることを目指す。


二つの啓蒙―『百科全書』と『百科全書教導説』/大橋完太郎(東京大学)

「啓蒙」は複数存在する。その最も単純な区別は、例えばドイツ啓蒙の標語となった Aufklärung と、フランス啓蒙を総括して言われる Lumièresとの違いに見出される。開明的な君主の資質を期待しつつ、いわば「官製」で行われる訓化を目指すことがカントの提示した啓蒙だとすれば、大革命を準備することになったフランスの啓蒙思想は、弾圧を被りかねない思想家たちが、地下的なものも含めたネットワークを構築しつつ作り出した、「民製」のものだと言えるだろう。おそらくこうした差異は、啓蒙の後に到来する国民国家の成立にまで影響していることが予想される。

啓蒙思想と国民国家との関係を考える上で、「百科全書」という言葉をキーワードにした啓蒙活動が歴史上少なくとも二つの国において存在している、ということは注目に値する。18世紀半ばのフランスにおいては、英国人E.チェンバースが編纂した『サイクロピーディア』を元に、ディドロとダランベールが『百科全書』の編纂を企てた。他方で、幕末から明治にかけての日本では、明六社の箕作麟祥によって、『百科全書教導説』と題されたW.チェンバースの辞典項目の翻訳が刊行されている。ディドロとダランベールの『百科全書』の思想を敷衍しつつ、共通の基盤とでも言うべき「百科全書」という理念を解析する事で、日本の啓蒙思想の特徴を浮彫りにする事を本発表では試みる。