日時:2007年7月1日(日) 9:30-11:30
会場:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2

・本能の諸相―大杉栄の「生の哲学」再考/星野太(東京大学)
・「この」現実の現実性を―九鬼周造の〈パッション〉/三河隆之(東京大学)
・絶対無の詩学―マラルメを読む田辺元/坂口周輔(東京大学)

【コメンテイター】宮山昌治(学習院大学)
【司会】三河隆之(東京大学)

ある文化現象の生起に主導的役割を果たすのは、自律自閉した思考主体による創意や地政学的コンテクストのみではない。にもかかわらず、日本的なるものをめぐる諸言説のうちにそうした自律性や地味等々の「本質」を求めようとする傾向は未だ根深く、それどころか、昨今そうした趨勢は露骨な増長をすらつづけていると言わざるをえない。こうした趨勢と慎重に距離を置きながらも「日本(的なるもの)」をめぐる問いを継続していくためには、断片化された歴史の痕跡や遺された言葉を丹念に辿り直す、特異的かつ発散的な「出来事」への地道な試みが必ずや要請されるはずである。

そこで本パネルにおいては、広義の「日本思想」なるものを、何らかの本質の謂いとしてではなく、むしろ他なるものとの邂逅、格闘、そして受容吸収、他方の曲解、誤解、忘却といった一連の流れに付された通り名のようなものとして仮設的に捉え、従来の日本思想史研究とは異なる視点の提供を目指したい。上述の理由から、本パネルでは積極的・統一的な収斂点は前提とせず、各発表によって結果的に形成されることになるかもしれない多焦点的な状況布置を、来聴者との議論も交えながら浮き彫りにできることを期待している。

【本パネルは、「受容としての「日本思想」〔芸術篇〕」と連携しており、2パネル1組として構想されたものです。】(パネル構成:星野太)

本能の諸相―大杉栄の「生の哲学」再考/星野太(東京大学)

本発表は、明治・大正期に活動した社会主義者である大杉栄(1885-1923)のテクストを哲学的に考察する試みである。従来、アナキストとしての実践的な活動に光が当てられることの多い大杉だが、他方で同時代の西洋哲学や社会理論を幅広く受容したその思想の射程は、いまだ十分に見極められているとは言いがたい。なかでも1912年以降に顕著になる「生の哲学」の受容は、思想史的に見ても検討を要する問題のひとつだろう。1900年代に平民社での活動を始めた大杉は、当初バクーニンやクロポトキンといったロシアのアナキストたちから主に影響を受けていた。しかし同時に大杉はソレルやベルクソンの著作に傾倒し、彼らの「生の哲学」をみずからの思想の核として取り入れはじめる。一見その内実は、「本能」という言葉を多用し、しばしばそれを知性に対立させている点で「生の哲学」を奉じる多くの論者たちと軌を同じくしているようにも見える。だが、実のところその思想は単なる「本能重視=知性軽視」という図式に収斂するものではない。こうした主旨を裏づけるために、本発表では「本能と創造」や「賭博本能論」といった1912年以降のテクストを主な考察の対象とし、そこに見られる「本能」という言葉の複雑な性格を詳らかにしていくことにする。そしてこの「生の哲学」の再考は、大杉の自我論・共同体論の射程を少なからず浮き彫りにすることになるだろう。


「この」現実の現実性を―九鬼周造の〈パッション〉/三河隆之(東京大学)

偶然性、音韻、情緒——九鬼周造が行なった哲学的文学的著作活動は、彼自身の言を借りれば「『この』現実の現実性」と呼ばれるような、ある出来事の相を把握することへの果てしない欲望、もしくは願いに貫かれていたと言える。この見解はすでに先行研究にも見られるものだが、それらの多くは、その要因を彼の遍歴や実存に求めながら、一種の“個人史”へと収斂させてしまうことで、九鬼の一連の仕事が提起しうる問いのポテンシャルを摑み損ねている。九鬼の仕事はむしろ、その活動の両輪をなし相互浸透し合っているようにみえる哲学と文学、西洋的思考と日本的性格等々の〈関係〉の問いへと大きく開いている点で、今日なお異彩を放っているのである。本論は、この問題点に迫る一歩として、九鬼が自らの根本問題についての思考を展開する際の方法の対象化を試みたい。換言すれば、西洋哲学の伝統を独特なしかたで受容吸収しつつも「日本的性格」への配慮を濃厚に織り込んでいる一連の偶然性論考、ならびに、あくまで「日本詩の」押韻その他を対象としながらその「世界性」と関係に着目せずにはいられなかった文学諸論考を主に扱いながら、その位相を提示すること、それが本論の目標である。


絶対無の詩学―マラルメを読む田辺元/坂口周輔(東京大学)

自然科学や数学への哲学的関心から己の仕事を出発させた田辺元(1885~1962)は、西洋哲学、西田哲学との格闘を経て、最終的には芸術哲学あるいは詩の領域へと向かう。特にフランス象徴主義に注目した彼の研究は、『ヴァレリイの芸術哲学』(1951)そして最晩年に刊行された最後の著作となる『マラルメ覚書』(1961)へ結実することになる。ただこれらの著作において、哲学者が文学を分析する際に陥りがちな、文学の特質を哲学の範疇へとはめ込んでしまう傾向は否めず、その結果、これらが独自のヴァレリー論、マラルメ論として現在省みられることは少ない。また、これら文学を扱う田辺に関する先行研究もこれまでほとんどないといってよい。しかし、とりわけマラルメ論において、コーンやブランショといった当時の最新のマラルメ研究成果を踏まえ、それらを乗り越える形で自論を展開し、また、マラルメの詩を自ら訳すといった田辺の研究姿勢は、もう一度検討するに値するのではないだろうか。ゆえに、これらの著作を田辺哲学の一端として位置づけるだけでなく、田辺と同様「無」や「偶然性」にこだわったマラルメ(できればヴァレリーも)との対話を通して、田辺のテクストの新たな可能性を探ってゆきたい。その際、田辺と同じく実存哲学の見地からマラルメ作品を分析したサルトルのマラルメ論との比較も有効と考えられる。