日時:2007年7月1日(日) 15:30 - 17:30
会場:東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2

・圓朝の幽霊、あるいは怪談噺の粘着性について/斎藤喬(東北大学)
・死の(代理)表象の造作―「燃える子供」の夢の解釈例から/松本由起子(札幌大学)
・楳図かずおとホラーの目撃者―主人公の不死性と可死性をめぐって/石岡良治(大妻女子大学)

【コメンテイター】齊藤征雄(東北大学)
【司会】齊藤征雄

本パネルは、登場人物の誰かが葬送されることになる「喪の物語」と、その体験の瞬間において惹き起こされるかもしれない「死」にまつわる情動(のようなもの)について考察するものである。例えば『テクストの快楽』のロラン・バルトは、ポオの短編小説である「ヴァルドマアル氏の病床の真相」における「先延ばしされた死」の挿話を、この延命は耐え難いと言いながら、ステレオタイプに対する吐き気とともに紹介している。特に、ヴァルドマアル氏は臨終の間際にあり、催眠術を掛けられていることによってその死が無期限に先延ばしされているという事態に注目しよう。ここで言う吐き気とは、もうすでに死んでいるにも関わらず未だに死ぬことができずにいるその待ち時間において、胃から喉元に込み上げて来ている汚物の感覚である。

ここでは、このような吐き気をとりあえず「ホラー」(あるいは「おぞましさ」)と呼ぶことにして、その上でこれを「喪の物語」における登場人物の「死」との関連において探究する。各発表は、ある具体的な作品を通して、極めて告白し難いこの「ホラー」の感じを報告しようとする。しかしながら、情動(のようなもの)を口にする時、人は否応なくステレオタイプ化された体験談を語ってしまうことにもなりかねない。それでは、語られた「死」を葬りつつ、体験談に抗いつつ、「ホラー」について語ることはいかにして可能であろうか。(パネル構成:斎藤喬)

圓朝の幽霊、あるいは怪談噺の粘着性について/斎藤喬(東北大学)

初代三遊亭圓朝(1839~1900)は、幕末から明治にかけて活躍した噺家である。今日においてなお「大圓朝」、「落語の神様」、「近代落語の租」などと呼び習わされることからも、その神話的なエピソードの雰囲気が窺い知れることだろう。広く知られた怪談四篇の他にも、「塩原多助」を始めとして「文七元結」、「鰍沢」、「黄金餅」、「死神」など、圓朝作とされる人情噺、落語の類は相当数に上るのだが、ここでは特に「牡丹燈籠」とともに怪談噺の代表作として知られる「累ヶ淵」を中心に考察を進める。「真景累ヶ淵」は、圓朝の幽霊談義を含むこともあってか屡々研究者によって取り沙汰される噺である。しかしながらこれまでの圓朝研究は当の記述が噺家の口演速記であるということをあまり重視せずに、その幽霊像を文明開化と当時流行の「神経病」に結び付けて、圓朝の時代性を考証することが多かったと言えるだろう。言うまでもなく、見世物としての怪談噺の眼目は怖がらせる語りをもって幽霊の話を聞かせるところにある。圓朝の神話化された名人芸を今日の私たちが味わうことはできないが、幸運にして「累ヶ淵」は現代まで演者に事欠くことがなかったため口演として耳にすることは可能である。本発表の目的は、語り手圓朝が示唆する「粘着性」をキーワードに、死んだはずの登場人物を表象する、怖がらせる語りとしての怪談噺の系譜を作者圓朝の速記から辿ることにある。


死の(代理)表象の造作―「燃える子供」の夢の解釈例から/松本由起子(札幌大学)

病死した子供の遺体を囲んで蝋燭が灯され、年寄りが番をしている。父親は隣の部屋で寝ている。と、子供がベッドの横に立っていて、腕をつかみとがめるようにささやく。「お父さん、僕が燃えているのが見えないの?」 目覚めて隣室の光に駆け付けると番人は眠りこけ、倒れた蝋燭で遺体の衣と腕が焦げていた。この有名な夢はフロイトが患者から伝え聞いたもので、患者も夢に関する講議で聞いており、出所は不明。患者は自らこの夢を見るに及び、フロイトは『夢判断』最終章を、印象深くはあるが展開上必然性の薄いこの夢ではじめ、以来、これは繰り返し解釈されてきた。この夢は現実の刺激(隣室からの光)+認識されていた危険(高齢者+蝋燭)から引き出された推論(遺体が燃えているのではないか)を「変更せずに繰り返す」もので、「願望充足の演じる役割が異常に従属的」である。火がついてすらもはや動くことのない存在に出会えるとしたら、どんな出会いでありうるかとラカンは問い、現実を借用するこの夢に現実界との出会いそこねを見る。それは、死の表象は可能かという問いへの答になっている。たとえ同じ燃える子供でも、これが「お父さん、熱いよ」なら、これほど多くの解釈を招きはしない。ここではラカン他の解釈例を、現実と願望の時間的関係、呼び起こす問いかけ、出所不明、夢の聞き手の位置に注目して検討し、解釈を呼び起こし続ける死の(代理)表象の造作を探る。