日時:2016年7月2日(日)16:30-18:30
場所:前橋市中央公民館5階503学習室

パネル概要

・「ポスト」から「クトゥルフの世」へ――ハラウェイにおける人間概念批判と連帯/猪口智広(東京大学)
・ダークインフォメーション――超人世あるいはポストニヒリズムの倫理感性的方便/原島大輔(東京大学)
・計算的理性と直観の盲点――1930年代のエピステモロジー的形象をめぐって/セバスチャン・ブロイ(東京大学)
【コメンテーター】北野圭介(立命館大学)
【司会】飯田麻結(ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ)


 ノーベル化学賞受賞者Paul Crutzenと、珪藻の研究によって知られる生態学者Eugene Stoermerが2000年に提唱した「人新世/アントロポセン」は、人間活動が環境に及ぼした影響が、新たな地質学的な時代の幕開けを示すという仮説に基づいたものである。Stoermerは1980年代から同語を用いていたが、「人類の時代」を意味する人新世概念は、オゾン層の破壊や地層への化学物質の蓄積といった同時代的な懸念と関連づけられ、2000年を機に急速に広まっていった。しかし、人新世が我々に投げかけるのは必ずしも地質学的な問いのみではない。むしろ、人間をあらたな世(エポック)の中心的なアクターとして位置づける同語は、分野横断的な議論を巻き起こした。人間と非–人間(nonhuman)との不可分で偶発的なつながりを示唆するポストヒューマニズムや、オブジェクト指向存在論(OOO)、さらに科学技術と身体性をめぐる諸々の理論的潮流と交錯しつつ、人新世はこの惑星を構成する生態系における人間の位置をラディカルに問い直したと言える。地質時代の区分である「世」としての一貫性を維持するために、人間は数万年先の未来の予言者となるのだろうか。また、その際「人間」には誰が含まれ、それは自明なカテゴリーとして認識されるのか。人新世の課題は、混乱した時間性やアイデンティティに関する問題にとどまらず、種の絶滅や環境破壊を前提とした黙示録的なシナリオが、我々が今まさに生きている現実をいかに変容しうるかという問いをも内包している。既存の地質学的区分も決して政治的・文化的な判断から切断されえないように、人新世もまた我々の想像力を喚起する重要なトピックであることを念頭に置き、本パネルは、メディア論・思想史・美学といった人文科学の幅広い領域から同概念を考察することを目的とする。


「ポスト」から「クトゥルフの世」へ─ハラウェイにおける人間概念批判と連帯
猪口智広(東京大学)

 人新世における人間‐非人間の関係を論じる上で、近年の人類学の潮流が積み重ねてきた、「人間/非人間」「主体/客体」「文化/自然」といった二分法への批判的視座の重要性は疑いない。中でも、人間以外の存在をも含む「複数種のエスノグラフィー」を目指す論者たちに影響を与えているのが、人と犬の種間関係を出発点にダナ・ハラウェイが展開する異種共働の議論である。その一方で、ハラウェイの議論をいち早くから参照してきたのは、情報化やバイオテクノロジーの進展がもたらす「ポストヒューマン」的主体を論じる潮流であった。SF作品におけるサイボーグを「ポストジェンダーの世界の生物」と形容してアイデンティティの参照点とした「サイボーグ宣言」(1985)は、依然ポストヒューマニズムの理論的基盤のひとつであり続けている。
 本発表ではハラウェイの議論を軸として、「ポスト」概念に対する批判的含意や、人新世に対置する「クトゥル新世(Chthulucene)」概念の提案を踏まえつつ、人新世における主体の問題系にフェミニズムやポストヒューマニズムの議論がもたらしうる知見について検討する。さらにこうした一連の「人間」概念批判を人間‐(非)人間の連帯構築へと接続する上で、情緒的紐帯や擬人化の様相からその評価の可能性を探る試みを行う。


ダークインフォメーション─超人世あるいはポストニヒリズムの倫理感性的方便
原島大輔(東京大学)

 人間の時代には、自我や世界の同一性を無限に保証するべき大きな物語の無根拠と偶然性への不安がグローバルに感染し、私的規模の環境や政治を類的規模のそれらに解消し制御する危機の物語が連鎖しもする。人新世の存在論的心配症は、たとえば大量絶滅のニヒルな予感に切迫されて、我々なるものの恒常的な保全を計画しもしよう。だが、ここではこう問うてみたい。自我も世界も両者の関係も実在しないこのポスト真理の条件で、しかし反動的に絶対的なものに執着することはなく、むしろそれらへの執着をこそ笑い飛ばして現実的で潜在的なものを体現する、いわば超人世のスタイルが、時代区分を超えて生きられてはいないか。本発表では先行研究として、龍樹やニーチェらをふまえたフランシスコ・ヴァレラのエナクティヴアプローチとエチカルノウハウをあげつつ、その問題点を共同体と情動の2つの論点から指摘する。そこでさらに、フェリックス・ガタリやブライアン・マッスミらの倫理感性論、グレゴリー・ベイトソンの精神の生態学、西垣通の基礎情報学などを参考に、本発表は、生物としての人間という観点、すなわち非人間例外主義的だが生命と非生命はシステム論的に識別する観点を仮設し、情報的閉鎖系と物質的開放系の二重のシステム論でアプローチを試み、これをポスト人新世の非人文学的人文学的なメディアアートないし中観的技法のひとつのエチコエステティカルノウハウとして提案する。


計算的理性と直観の盲点─1930年代のエピステモロジー的形象をめぐって
セバスチャン・ブロイ(東京大学)

 アントロポセンが「人造」の危機であるとすれば、その原型を西欧近代、とりわけテクノサイエンスの覇権に懸念を表した知的言説に見出すことができるだろう。1930年代、第二次世界大戦の前夜に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を発表したエドムンド・フッサールはまさに、学問の実践に留まらず、人間主体の認識活動にも関わる「危機」に着目した一人である。ヒルベルト数学のように、「直観」(Anschauung)からかけ離れた恣意的な記号操作によって真理を追求する思考運動と、フッサール自身も含め、身体化された「直観」にこそ知の条件を求める思潮の対立は、当時のエピステーメーをゆるがす断絶そのものであった。
 本発表では、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機』を手がかりに、1930年代に顕著となったこの「直観」の危機という形象をめぐり、科学史・哲学史を横断する考察を行いたい。フッサールが懸念に思った「危機」が、やがて電子回路と記号論理の融合である「コンピューター」に結実したとき、もはや身体感覚では認識し得えないマイクロ時空性で作動する「記号的機械」が誕生し、そして科学技術は記号的動物といわれる「人間」のもっとも奥深い聖域へ浸透しはじめた。「人」新世の我々は、この出来事の余波を生きているからこそ、その淵源となった知的文脈をより深く理解する必要があるのではないだろうか。