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第11回大会|シンポジウム:いま「自己」はどこにあるのか —— 精神分析、自己啓発、アルゴリズム

日時:2016年7月9日(土)13:00-16:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館1号ホール

松本卓也(京都大学)「統合失調症の時代から自閉症スペクトラムの時代へ」
牧野智和(大妻女子大学)「自己啓発・再帰性・異種混交性」
細馬宏通(滋賀県立大学)「自己観を開く:個の認知から相互行為による認知へ」
〈コメンテーター〉小泉義之(立命館大学)
〈司会〉千葉雅也(立命館大学)

 21世紀に入り、人文学では、人間の生産物のみならず、人間の人間性そのものの根底的変容を言わんとする議論がしばしば提起されてきた。何らかの従来的な意味での人間ではなくなった人間にリアリティを認めようとする傾向、それに納得するかどうかはともかくとして、2010年代も後半に入る今日、情報空間の介在を避けがたくなった状況における労働/消費形態の変容が、生活の重要な異質化を体感させていることは確かであるだろう。そうした状況下で今回のシンポジウムでは、「自己self 論」を試みる。大きな問いは、(何らかの従来の基準に照らして)非−人間的ないし準−人間的な自己をどう捉えるか、である。
 提案者(千葉)としては、次の文脈を想定している。これまでにしばしば、人間が「より単純」(以前はより「複雑」だった)なあり方になる局面を問題にしなければならないという必要性が示されてきた。生命維持をしているだけの状態(アガンベンの言う「剥き出しの生」)、反省よりも反応・行動(東浩紀の「動物化」論、行動経済学など)、その意味を反芻しないで遂行される一定の手続き=アルゴリズムの優位(自閉症論など)、等々のテーマが挙げられる。こうした単純な、あるいはハイデガー的に形容するならば「貧しい」あり方は、受動的・他律的であり、能動性・自律性の色が濃い「主体subject」という語をそこに当てることには違和感があるようなものではないだろうか。ゆえに今回は、「主体と言うには強すぎる、曖昧な準拠点」として、「自己」という言い方を用いることにした。あるいはもっと弱めて「自己もどき」でもよいかもしれない。今回は、こうした単純化・貧乏(ひんぼう)した自己という自己表象のタイプを中心として議論したいのである。
 「たいして複雑には考えない」ということを最大限に利用しようとする現代の制御(コントロール)社会、ないしマネジメント社会は、如上の意味での「自己もどき」を生産する(それに従来の我々が置き換えられていく)社会だ。これは、一方では批判の対象になりうるだろう。が、同時にそれは、人間のそもそもの、かつては見えにくかったインフラを示唆してもいるのではないか。今日我々は、TwitterやLINEでぎこちなくも愛らしくチャットの相手になってくれる機械学習ボットにかつてなく似たものとしての自己表象を抱いてはいないか。我々は、かつてなく「自己もどき」であることを賦活されているのであり、そうした状況において、人間と事物一般とのフラットな関係が語られもしている(「オブジェクト指向存在論」や「新しい唯物論」)のではないか——仮にそう考えてみるとして、そこに、批判と肯定とを併せた議論をどのように差し向けることができるだろうか。

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