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第11回大会|パネル3:筋肉の表象/表象の筋肉

日時:2016年7月10日(日)14:00-16:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館23号室

パネル概要

・筋肉と自己──スタローン論序説/三浦哲哉(青山学院大学)
・シュワルツェネッガーとアトミック・マッスル──90年代アメリカ映画における筋肉表象の変容について/入江哲朗(東京大学)
・筋肉的無意識──身体における力の表象と媒質としての筋肉/畠山宗明(聖学院大学)
【コメンテーター】千葉雅也(立命館大学)
【司会】三浦哲哉

 本パネルの企図は、映画をはじめとした現代の視覚文化における「筋肉の表象」の意味をあきらかにするための議論の端緒を開くことにある。
 これまでの学術研究において、ボディビルをはじめとした筋肉の増強は身体の完全なコントロール/管理という規範に結びつけられ、保守的・男性的イデオロギーを強化するものとして批判的に論じられてきた。しかし、筋肉を「表象」として捉え直した時、それは、規範を強化しつつそこから逸脱していく両義的な形象としての側面を露わにする。表象としての筋肉は、一方では完全な身体という幻想を強化しつつ、他方では、その固有の可塑性によって、人工/自然、装飾/機能、外観/内面、男性/女性といったさまざまな規範的なカテゴリーを挑発し変容させ、さらに、身体的な「肉」と表象の「肉」をも交差させていくだろう。
 本パネルでは主に1980年代以降の映画における肉体表象に着目することで、そのような表象としての筋肉の可能性について考察したい。とりわけ1980年代以降、主体と筋肉の有機的な結びつきは失調し、人格から切り離された筋肉の自走や増殖がしばしば表現されるようになる。こうした失調は冷戦やバブルの崩壊を経て極大化するものの、近年はより想像的な理想的イメージに包摂されつつあるように思われる。本パネルでは、こうした臨界的な状況を、さまざまな事例に即して、具体的に示していくことになるだろう。


筋肉と自己──スタローン論序説
三浦哲哉(青山学院大学)

 映画俳優・監督・脚本家であるシルヴェスター・スタローンの諸作品を、その「筋肉表象」を通して再解釈し、おもに80年代以降の視覚文化における位置を再考することが本発表の目的である。
 スタローンの諸作品は、強い男性像への保守的回帰のシンボルとして受容されてきた半面、近年の「スタローン・スタディ」(Chris Holumlund, 2014)で注目されているように、そこでは肉体の自然や健康を取り戻すことの本質的な不可能性が露呈されており、そこから独特の問題圏が形成されている。「ロッキー」は、シリーズ第一作からすでに引退間際の高齢ボクサーであり、「ランボー」は心的外傷に苛まれる退役軍人であった。シリーズが更新されるごとに繰り返される無際限のカムバック劇は、老いや病や抑鬱状態からのあり得ないはずの克服として描かれている。これら不合理ないし奇跡をそれでも成立させるものこそが「筋肉」である。そこで「筋肉」は、描かれる主題であると同時に、奇跡を可能にするフィクションの場そのものを成立させる「基底材」でもある。
「基底材」としての筋肉それ自体の操作は、スタローンの自作自演作家という立場と深く関わっており、その創作/造形における指導的原理を成している。以上の観点からその作品群のテーマ──不死性、反復強迫、受苦/受難、ナルシシズム、笑い──を読み解き、「筋肉の時代」に固有の映像表現の最も重要な事例のひとつとして提示する。


シュワルツェネッガーとアトミック・マッスル──90年代アメリカ映画における筋肉表象の変容について
入江哲朗(東京大学)

 アーノルド・シュワルツェネッガーが映画俳優としてのキャリアを本格的に歩みはじめたのは、ボディビルという領域での名声を十分に確立したあとのことである。言うなれば、スクリーンに登場する彼の肉体ははじめから「完成」されていたのであり、それは『ロッキー』(1976)でスターダムにのしあがったシルヴェスター・スタローンとの大きな違いである。シュワルツェネッガーの筋肉は、主人公がある目標のためにトレーニングを積んで強くなるという展開の説得力を損なう(なぜなら彼はすでに見るからに強そうなのだから)という意味では、映画にとって「過剰」なものとして存在していた。
 本発表では、シュワルツェネッガーという俳優が(文字どおり)体現しているこの「過剰」な筋肉を、ひとまず「アトミック・マッスル」と呼ぶ。そう呼ぶ理由のひとつは、彼のデビューを後押しした時流(強い男性像へのニーズ)が冷戦という背景と不可分なものだからであるが、本発表が特に注目するのは、冷戦終結後におけるアトミック・マッスルの帰趨である。『キンダガートン・コップ』(1990)や『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993)といった作品からは、いっけん、90年代のシュワルツェネッガーはセルフ・パロディに活路を見出したようにも思われる。しかし本発表は、アトミック・マッスルが私たちにもたらす笑いについて分析することをとおして、これらの作品がパロディという枠には収まらない重要性を持つことを論じ、シュワルツェネッガーの筋肉が90年代のアメリカ映画において切り拓いた表現論的な可能性を提示することを試みる。


筋肉的無意識──身体における力の表象と媒質としての筋肉
畠山宗明(聖学院大学)

 本発表は、1980年代以降のさまざまな動画作品やマンガ表現に現れる、身体コントロールの失調/拡張を契機に生じる身体表象の変容、および、それを可能にしている筋肉表象の媒質的機能を明らかにすることを目的としている。
 エイゼンシュテインをはじめとするロシアの前衛映画作家たちは、心的状態を、条件反射的な自動運動に委ねられた身体の各部をモンタージュすることで描き出そうとした。そうしたモンタージュは、機械的部分の衝突を通じて全体としての有機的自然の運動へと回帰することを目的として行われていたが、同時にそれは身体運動の原理を心的動機付けから解放し、平面性など異なった表現原理に服させることを可能にしていた。つまりそこには、全体化されざる「表面」の運動が、期せずして誕生しているのである。
 このような、肉化された無意識表象を通じて身体に生じる「デフォルメ」、「表面」としての身体への移行は、1970年代から1980年代にかけて、心的逸脱の表象に精神病理学的な観点が付与されていくのと平行して、形を変えて回帰しているように思われる。
 SFXによる身体の変容、カンフー映画並びにそのデジタル的な運動の拡張、さらにはアニメーションやマンガにおける超能力の表象などにおいて、筋肉表象は身体を超えた「力」を導入する「場所」としてだけでなく、力が書き込まれた身体各部をアントロポモルフィックな統合性から開放する「シフター」としても機能しているように思われる。本発表では、ミハイル・ヤンポリスキーの「身体のデフォルメ」や「デーモン」、「表面」といった概念を参照しつつ、ジャンルを超えて広がっているそのような筋肉表象の多層的な媒質性を、様々な作品に確認していきたい。

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